2006年5月27日講演をお願いしたあまほろさん(津田政明さん)が去る4月7日59歳で亡くなられました。
1996年のバブル崩壊以後職を失い、家を失った人たちが行き場をなくし、日本の労働市場から溢れました。あちこちの河原や公園にブルーシートが目立ち、ホームレスの人の数がピーク時の2003年には全国で25000人を数えました。
あまほろさんはアフリカのルワンダで内戦によって難民となった人たちの支援を行っていましたが、日本に戻ることを決意し、新宿でホームレスの食糧支援を行います。食べ物を受け取る人とともに新宿530(ゴミゼロ)部隊を結成し、新宿公園周辺のゴミ拾い活動も行いました。自信をなくした人たちに、炊き出しの指導をしたりゴミ拾いをしたり、生きる意欲と自信を取り戻させたいとの思いがあったようです。
その頃パートナーの晶子さんとも知り合いました。ホームレス支援の後輩に、「お前、ゴミ拾いしていると良いことがあるぞ。俺は奥さんまで拾ってしまった」と冗談を言って笑ったと、あまほろさんのお別れの会の席で伺いました。
そして、ホームレスの人の働き場づくりもあって、佐渡に移り住みます。耕作放棄地を借りて無農薬の米作りを始めます。
私達が講演をお願いした2006年頃はピーク時に比べればいくぶん少なくなっていたものの、全国で18000人(厚労省調べ)のホームレスが新宿や江戸川や多摩川などで段ボールとブルーシートで生活していたころで、国はあまほろさんのような個人のボランティアや韓国の教会の人に支援を委ね、むしろ公共施設からのホームレス排除に躍起になっていた時期でした。
知人をとおして紹介いただいたあまほろさんは、当時佐渡に移り住むことを決めたか、住んでいてたまたま東京にもとったところだったか、だったと思います。この人の話を聞きたい!!と即座に思いました。
講演会当日、あの日のあまほろさんは、茶系のパンツに、おしゃれなベストを着て、日焼けした顔に大きな目を輝かせて、熱心にお話し下さり、質問にも熱心に応えて下さっていました。活力がみなぎった人との印象を誰もが受けました。
そして翌年の2007年9月14日~16日、渡辺さざれさんの企画で、人権ネットワーク会員に呼びかけて佐渡旅行を行いました。屋久島に続く島旅行第二弾でした。あまほろさん、晶子さんの案内で、クマクマにもつきあってもらい、佐渡の自然と人の温かさを十二分に楽しんだ3日間でした。
佐渡に移り住んでから紆余曲折を経て10年にして軌道に乗ったあまほろさんの天日干し、無農薬のお米をずっと食べ続けているのは大槻ほのかさんご一家です。あまほろさんが2月15日屋根から落ちて救急車で佐渡病院に運ばれたとの第一報は大槻さんからでした。 あまほろさんを私達に引き合わせてくれた石垣島の野﨑さんの都合に合わせ、三人で佐渡までお見舞いに行ったのが3月26日、その後の晶子さんの連絡ではだいぶ体調がよくなったとのことでしたが、4月7日容体が急変し旅立たれました。屋根から落ちて脳挫傷とのことでしたが、10年前から肝炎の診断を受けていたことを知ったのはあまほろさんが亡くなってからだったそうです。屋根から落ちた時点であまほろさんの肝臓は肝硬変で大変な状態だったようです。
昨日の人権ネットワーク総会当日の午後、生まれ故郷の横浜の西林寺で葬儀とお別れの会のご連絡をいただき、大槻さん、源さん、長戸路さん、私の4人で午後京橋を出て、参列させていただきました。
あまほろさんのお別れの会は同窓生やボランティア仲間を中心に80名位の方が集まったでしょうか。ルワンダの国旗を掲げ、あまほろさんがボランティアをするきっかけとなったイマジンを歌い、悲しくも盛大なお別れ会でした。
喪主の晶子さんは、「どんなときでも私が外出する時はクマクマを抱いて、車まで来て、『行ってらっしゃい』を、一日に三回出掛けるときは三度とも、同じように送り出してくれた」と幸せな10年間を振り返ってご挨拶してくださいました。晶子さんの健気さや優しさや明るさがあまほろさんの肝炎の10年間を支え続けたのだと感じました。
「あまほろ」とはルワンダ語で「平和」を意味するそうです。西林寺の住職さんがつけられた戒名は「平和政風信士」、風になったあまほろさんそのものです。
あまほろさん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠り下さい。
津田政明さんが波乱万丈の半生を綴り、
ホームレス急増という社会が抱える問題に迫った一冊。
雷鳥社 定価(1300円+税)