会報100号記念号(2022.7.25)

ご挨拶

2020年世界中で新型コロナウイルス感染症が流行し、日本においても緊急事態宣言が繰り返し出され、私達の生活にさまざまな影響を与えました。このため、障害児・者人権ネットワークにおいては、定例会、総会、講演会等も実施制限を余儀なくされました。何もできなもどかしい日時が経過しました。

去年の春以降、ワクチン接種が始まり、年度後半から感染者数が減少に転じましたが、マスク着用は未だに続いています。感染拡大の長期化による経済、市民生活への影響は大きく、生活困窮等、
様々な課題が噴出し、権利侵害が潜在化、深刻化しています。

こんな状況の中でなおさら、障害児・者人権ネットワークにおいても、障害者の地域共生社会の実現に向けて、小さなことにコツコツと取り組んでまいりたいと思っております。

さて、NPO法人障害児・者人権ネットワークは、1981年の国際障害者年を機に、障害当事者、家族、市民、弁護士、福祉関係者等により、任意団体として発足致しました。以降30年近くに亘り、人権活動に会員一同頑張って来ました。
その間、会報やホームページによって発信してきましたが、会報は今回で100号目となり、振り返ると長いようにも短いようにも感じております。

世界に遅れをとるも、障害者差別禁止法制定に向けて微力ながら活動を続け、国内における障害者差別解消法の制定にこぎつけるにつけ、運動の力とは大きなものだなと感じております。

今回、100号発刊に伴い、会員の皆さまから日々の思い、ネットワークとの関わり、現状報告などの原稿をお寄せいただきました。ありがとうございました。

命の続く限り、障害児・者人権ネットワークの活動を続けていきたいと思っております。
引き続き皆さまの関心をお寄せいただきたく、お願い致します。

理事長 粟谷 弘海

Kさんからのうれしいご報告

コロナウイルスの到来により私たちの生活は良くも悪くも一変しました。
また尊い命が失われたり後遺症を抱えながら暮らしておられる方が増えていると聞いています。

お久しぶりです。
肢体、視覚、言語、てんかんの重複障害で車いすと、ノートパソコンで生活しているkです。人権ネットワーク様には何時も会報をお送りいただきありがとうございます。

さてだいぶ報告が遅れまして誠に申し訳ないのですがこのたび社会福祉士となりましたので取り急ぎ報告させていただきます。本来ならもっと早くお知らせしなければならない所を遅くなり申し訳ありませんでした。

人権ネットワークの小野様をはじめ、弁護士の先生方には請願書を出していただきパソコン受験にこぎつけたことは本当にありがたかったです。しかし実際はパソコン受験になった所からがスタートでその後色々な問題があり、また自分の学力不足のほうが大きかったと思いますが「笑い」とりあえず私が受けることで実績を作り、次に受ける人は少しぐらいは楽ができれば良いと思って、受け続けました。

そして合否発表の日にHPで自分の番号を見たときには何かの間違いだろうと思い(画面読み上げソフトではpdfは読み難い時があります)、通知が来ないため「ああ、落ちたな。」と思いました。そしてしばらく立つと合格通知が届き心配だった登録作業も何の問題もなく登録証が先日届いていました。

ずっと応援していただきありがとうございました。なお登録はしたもののまだまだソーシャルワーカーとしての自覚は無くたぶんこれからも人々とともに連帯しながら社会変革できればと思っています。
どうぞこれからもよろしくお願いします。それではお礼と報告にて失礼します。

ZOOM会議

会報の中にありましたズームの件ですが、まず聴覚障碍者が参加した場合は情報保障として私が知っているのは二種類です。

1. 1つは予め要約筆記の人もズームに入っていただいてクローズドキャプション等に打って画面共有してもらうという方法です。ただ要約筆記の人にお願いする場合はある程度前もって言っておかないといけないしたぶんそれなりの費用も必要なのではないでしょうか。

2.それからこれは良いかどうかは分かりませんがとりあえず事務局の方でも、参加者の方でも良いので一人会話をそのままチャットに打ち込んで送信するという方法です。ただこれをやるなら全員がユックリ目に話すことや名前を言ってから一人ずつ発言するほうが良いのかなと思います。そして一回の会議で二人ぐらいは人数確保しておいた方が良い気がします。そして予め時間を決めておくなどして途中で交代したら良いと思います。もしくはワード等をフォントを上げた状態で立ち上げて画面共有してしまうとかですね。ただそうなった場合もしその打ち込み担当が別なファイル等を開いた場合それも見えてしまうので「絶対開かないパソコン」みたいな物があることが条件になりますね。

3. 携帯だとどうなるのかが少し分かりにくいのですが。文字認識アプリ等もあるようですが実際どの程度の正確性があるのかについては当事者に聞いてみないと何とも言えない所がある気がします。あとは実際に参加される聴覚障害の方が何を望まれるかだと思います。

4. それから視覚障害者の件ですがこれも事務局でも誰でも良いのでとりあえず文字情報は流れてきたもの、画面共有された物等は誰かが読み上げる事で最終的にはきちんと情報が行きわたると思います。ただどんな環境で使われているのかによって何処を、どのぐらい読むかが変わってくるので何とも言えない気がします。

以上私が分かる範囲でお伝えしました。

タイトル「9泊10日の博多・広島旅行記」

◆旅行のテーマ
今を精一杯生きることをテーマにしました。現地でウーバーイーツの配達をして旅費を稼ぎながら、「とにかくやりたいことをする」という気ままな旅です。もちろん計画は立てず、今回も1週間ぐらいの予定が10日間に延びました。

ウーバーイーツの配達とは、マクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンなどの食事を注文者に届ける仕事です。今回は広島市民にアツアツの料理を届けました。

ウーバーイーツの稼ぎは売上に相当する受取配達料から原価に相当するシェアサイクル(貸自転車)代を差し引いた残りです。広島市を例にすると、シェアサイクル代は一日1,100円です。その日の売上が10,000円なら、稼ぎは「10,000円-1,000円=9,000円」になります。

◆旅行スケジュール
5/30(月)
・東海道・山陽新幹線で博多へ行く
・アパホテル博多駅4丁目に到着する
5/31(火)
・昼間のオープンバス観光:博多街なかコースで博多の中心街を見学する
・一蘭本店:とんこつラーメンの名店で、とんこつラーメンを注文した
・福岡タワー:全長234mの海浜タワーの展望台に行く
・博多湾クルーズ:夕方から夜にかけての博多湾と中州を遊覧船で眺める
6/1(水)
・太宰府天満宮:菅原道真が祀られている神社の見学とお参りをする
・九州国立博物館:当日は葛飾北斎の絵画が見学する
・大濠公園:日本庭園を見学する、ボートに乗る、鯉に餌をあげる
・ワイン祭り:ノンアルコールのワインを注文する
6/2(木)
・福岡大仏にて地獄・極楽めぐりをする
・屋台で豚バラ鉄板焼きを注文する
6/3(金)
・芥屋大門(けやのおおと)遊覧船:玄界灘の絶景スポットを見学する
・お土産屋にて夕飯のおかずとなる明太子と高菜を購入する
・高速バスで広島市へ移動する
・ひろしま国際ホテルに到着する
6/4(土)
・昼と夜にウーバーイーツの配達をする
・東急ハンズで広島カープのユニフォームを購入し、翌日から着る
6/5(日)
・呉ハイカラ食堂で、くじらカツの入った呉海自カレーを食べる
・呉湾艦船めぐりで遊覧船に乗る
・大和ミュージアムを見学する
・てつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)で見学する
・大雨の中、夜だけウーバーイーツの配達をする
6/6(月)
・厳島神社
・宮島ロープウエーに乗って弥山展望台に行く
・ひろしま世界遺産航路のフェリーで瀬戸内海を見学し、原爆ドームへ向かう
・原爆ドームを見学する
6/7(火)
・広島平和記念資料館と平和記念公園を見学する
・昼と夜にウーバーイーツの配達をする
・広島城を見学する
・縮景園(日本庭園)を見学し、鯉に餌をあげる
6/8(水)
・新幹線で帰宅する

◆動機
ゴールデンウィークに駐車違反の切符を切られたなど日ごろの疲れを癒す慰安旅行です。博多を旅行先に選んだのは、ある人から聞いた「岡山から西は新幹線が揺れる」ということが気になっていたからです。こだわりが強かったせいか、行ったことがないのにもかかわらず、岡山あたりで新幹線に乗っている夢が出てきました。
実際に5時間の乗車の中、東京から新神戸までは快適でしたが、岡山から博多までの揺れが強く、体力が消耗しました。

◆主な観光
1,ウーバーイーツの配達
地元住民と接触でき、自転車で市内観光ができるので、この仕事もレジャーの一環です。ウーバーイーツの配達で広島市民と接しましたが、感情を表に出す傾向に思えます。お礼にペットボトルのお茶をプレゼントしてくれる優しい人もいれば、道に迷って文句をいう厳しい人もいました。

広島で大雨に遭いましたが、恵みの雨です。旅行が不便でも、注文数が激増するウーバーイーツの配達で旅費が稼げます。ホテルで傘を借りて、徒歩で配達しました。
博多でもウーバーイーツの配達をする予定でしたが、シェアサイクル代が高すぎて、稼ぎにならないため、断念しました。

2,とんこつラーメンなどのグルメ
グルメに関しては不完全燃焼でした。博多名物のもつ鍋と広島名物の牡蠣が苦手だからです。しかも、マンツーマンで管理栄養士から栄養指導を受けているため、グルメを堪能しきれませんでした。たとえば、一蘭本店でとんこつラーメンを食べた後「昼食はカロリーが多く、栄養価が少ないので、夜は低カロリー、高栄養を意識しましょう」とフィードバックがきます。

3,大濠公園ボート
大人げないという、恥ずかしい気持ちよりも乗りたい気持ちが勝ったために足漕ぎボートに乗車しました。福岡城跡を味わうつもりでしたが、運転が難しくて楽しむどころではありませんでした。

4,広島市内の東急ハンズ
広島に到着して感じたことは「カープ熱がすごい」ことにつきます。広島カープのユニフォームを着ている地元民が多いのにはびっくりしました。そこで、漢字こそ違うが同性の「安部友裕選手」のユニフォームを5,000円ぐらいで購入しました。背中のネームが「ABE」と表記されているので、気に入っています。

5,博多湾クルーズ博多湾からの夕陽はきれいでした。景色はばっちりとカメラに収めました。きれい
な景色なので、ムードに浸っているカップルが多かったです。うらやましいよ~!

6,弥山展望台
広島市の隣に位置する廿日市市(はつかいちし)の宮島に弥山展望台があります。宮島ロープウエイでのぼってから、展望台まで徒歩30分のミニ登山をします。頂上から眺める瀬戸内海の島々は絶景です。
登山の途中でカップルの写真を撮ってあげるという、 自分にとっては謎の親切心が働いてしまいました。旅の思い出に絶景をバックに一人ずつ撮影するより、カップルお揃いのほうがいいと思ったので。。。まあ、人に何か与えればそのうち自分に返ってくることを期待しましょうか?

7,芥屋大門(けやのおおと)遊覧船
福岡県の最西端に位置する糸島市に玄界灘の絶景があります。その遊覧船です。絶景にはカップルがつきものなのでしょうか、福岡市内から来た男女1組の写真撮影をしました。
糸島市は海産物が豊富で、海釣りをしている人が多かったと思います。実はこころのどこかに魚釣りを覚えたいという願望があります。「ウクライナ侵攻→小麦価格の高騰」が頭をよぎり、(今すぐには到来しないだろうが?)食料不足に備えて自給自足ができればいいと思いました。

8,太宰府天満宮と厳島神社
素晴らしい観光地です。修学旅行生でにぎわっていました。いい思い出にしてほしい限りです。
ところが修学旅行はコロナ過の影響により去年まで当たり前ではありませんでした。去年の秋に京都・清水寺に行ったとき、静岡から来た中学生が「修学旅行は2回延期された」と言っていたのが印象的です。
去年と今年の修学旅行生を比較して、「当たり前のことが当たり前にできないこと」ってあるのだと思いました。

9,広島平和記念公園資料館
原爆を受けた広島市の被害がメインの資料館です。即死や放射線被ばくによる被害など痛ましい展示物があります。
「明日は生きていないかもしれない」「朝の目覚めが本当は当たり前でない」それが資料館で感じたことです。だからこそ悔いのないようにしたいし、特に何かやらなかった後悔だけはしたくないと思います。今を精一杯生きましょう。

100号発刊に寄せて

私が障害児者人権ネットワークに出会ったきっかけは、一枚の新聞記事にある広告欄に人権弁護士(後の障害者人権弁護団)主催「米国、アメリカ人法(障害者差別禁止法)」発表会があるという記事で、東京で集会を催す内容であった。
この法律は、障害者に対して差別をしてはならない。違反すれば訴える(罰金)権利がある。
私は今まで障害当事者(脳性小児マヒ)でありながら、今まで「人権」という二文字は考えたことはなかった。私はその言葉にひかれ参加してみようと思ったのが、障害児・者人権ネットワーク (当時、まだなかった)に入る最初のきっかけでした。それまでは、障害者は可愛そうな存在で庇護のもとでないと生きられないと思っていたのが、参加してみて、障害者は可愛そうな存在ではなく、人間として生きる場の提供がなされていない社会の側の問題であると聞き、目からうろこみたいな思いで聞いていた。

それまでの教育は、障害者は頑張って、頑張って努力し、訓練に励み、健常者のようになれるよう頑張る。冷静に考えれば、そんなことはありえないのであるが。頑張って、頑張って障害が治るものでもなく、むしろ今ある障害を受け入れ、障害があっても、障害と感じないような配慮ある社会が障害をなくすということが、当時の私にはわからなかった。

その後、人権弁護団による米国視察研修が始まり、私も参加した。米国に行き、寝たきりの 重度障害の人が入所している施設から退所し、地域で生活をするという話を聞き、おどろきとショックを受けた。一般的には、入所施設の生活は、職員が介護し、衣食住を提供する。まるで籠の中の鳥のようなものだ。退所するにあたり職員は無理だと言い、反対したそうだ。その重度の障害の方は、自身でケア(介護)をしてくれるボランティアをさがし、アパートを借り、自由に表に出る生活を送っていた。実際その方と会い話を聞き、生活場面もみせていただいた。勿論、費用の件、アメリカ人法にのっとって、米国政府が支払う。なぜかといえば、人それぞれ人権があり生きる権利がある。目からうろこである。公共交通機関、鉄道、バス、お店等も自由に乗れ、店にも入れる。日本は考えられないことであった。
米国の障害者は、のびのびと生き生き暮しており、街の中でも多くの障害者が見受けられた。夜、街の中で車イスの障害者が、これから店に飲みに行くと出会った。日本は考えられない光景であった。

米国の障害者はのびのび生き生きと暮らしているのに、なぜ日本では、それが出来ないのか?と不思議がられた。勿論、昔のアメリカでも、今の日本の考え方のような時代もあった。
しかし我々はこの自由のアメリカ社会が、障害者の自由がないことは、おかしいと何度も政府、世論 (ロビー活動)に訴え続け運動を行い、アメリカ人法(当時ブッシュ大統領)障害者差別禁止法の制定への法律を勝ち取った。そういう歴史があるからだ。一番の負けは、あきらめるということだ。

私は日本に戻り、米国で出来たことが、日本でもやれないことはないと確信した。
なぜかといえば、将来、日本は高齢化という問題に直面する。
その時、段差があってトイレに入れない、公共の場に手すりがない、スロープ、エレベーターも皆が必要になってくる。この間は障害者だけの問題はなく、社会全体の問題になってくると思った。それを解決するには、法律の制定しかないということ。いろいろな地域で、講演会や学習会等、人権について人々の意識変革を行った。それ以外に共生社会の実現につながる方法がないと思った。
しかし当時はバブル社会一色で、国も地方公共団体業も障害者に権利を与えることは逆に差別になると消極的な態度であった。
障害者は国や社会が守り限られた社会(施設)で過ごすことが、安全であり人権が守られるという発想である。
1981年国際障害者年をきっかけに当事者の声も聞きながら国は、差別禁止法はなく、障害者差別解消法を制定し、社会のバリアフリー化を目指している。
日本においても障害当事者みずから主体的な生きる権利の保障を目指して進んでいきたい。

これからやりたいこと

コロナの前に母が亡くなりました。

コロナ前で本当に良かったと思います。
脳梗塞を起こし気管切開しました。
忙しい看護師さんたちが痰が溜まったときすぐに取ってくれるだろうか、仰向け状態で寝ているので背中が痛いのではと心配で病院に迷惑とは思いながらも朝10時から夜7時まで弟妹4人と交代で付き添いました。
これがコロナ禍の時だったら、見舞いにも行けず母の苦しんでいる姿を想像し心が休まる事はなかったと思います。

お世話になった方が、介護施設に入居されました。
痴呆症の方も入居されているのでやむを得ない事ではありますが行動が制限され施設外に出る事も限られてしまう。体は健康なのに殆どの時間を施設内で過ごす。この社会を築いてこられた方々の日々の過ごし方としては辛すぎるように感じました。

今、障がい者の方のグループホームをやっていますが、自分も70歳を過ぎ人生最後をどう生きたらいいかと切実に考えるようになりました。
それには自分も入りたいグループホームを作ろうと思います。

母のような状態になった人もホームで最後まで介護する。
痴呆症の方でも健康なら介護やホームの手伝いをしていただき報酬を支払う。
庭にみんなで畑をつくる。犬猫を飼い世話をする。
2年後ぐらいに実現したらと目標にしています。

私の人生を豊かにしてくれた出会い

私は三宅島で生まれました。姉と妹がいて、姉が東京にいます。
学校を卒業し、池上の神田寮、太田通勤寮でそれぞれ数年ずつ生活しました。この時期は仕事も点々とし、生活が落ち着きませんでした。

私には妙に強い正義感があり、これはおかしいと思うと、相手に自分の意見をはっきり伝えるので、結果、喧嘩になります。そんなことでうまくいかなくなることがあり、26,7歳の頃、太田通勤寮を出ることになってしまいました。それで、次に紹介された阿部寮に移ることになりました。私が阿部寮に移るのとちょうど同じ頃、阿部寮に川口さんという寮母さんが入り、私達のお世話をしてくれることになりました。

阿部寮と川口さんとの出会いが私のそれからの生活を豊かに、安定したものに変えてくれました。

川口さんは元家庭科の先生で、私達の面倒をよくみてくれましたが、生活態度は厳しくチェックされました。きちんと職場でやっていけるようにとの親心からです。私が几帳面で、掃除が得意だということを見抜いてくれたのも川口さんでした。
阿部寮に移ったときは仕事を探しているところでした。あの頃の私はまだ生活態度が悪く、ハローワークに行ってくるといっては、別のところに遊びに行ってしまい、川口さんから大目玉をくらいました。私一人では信用できないと思ったのか、川口さんがハローワークについて来てくれ、「伊藤君は掃除が得意です」とアピールしてくれました。担当の人が、「ちょうど、私の家の近くに新幹線の車輌を掃除
する会社があります」と紹介してくれ、応募したところ採用になりました。JR東海の下請け会社でした。

私が勤務して少したった頃、会社が経営規模を大きくしすぎて倒産しました。私達の行き場がなくなり、困っていると、今の会社が正社員、準社員、アルバイトの区別なく、働いていた人全員を引き取ってくれました。本当に幸運でした。
仕事を覚えるのは大変でしたが、新幹線の仕事は私にピッタリの仕事で、やりがいがあります。私の仕事ぶりを見ていた上司から、「伊藤君は責任者としてやっていけるんじゃないか」と言われ、正社員になる試験を受けていなかったのですが、上司が帰宅する5時以降の時間と上司のいない土日は私が責任者として統括することになりました。

自慢ではありませんが、何もない黄色いヘルメットから、一挙に二本線の入った白のヘルメットを被ることができるのは誇らしいことで、大変な出世でした。しかし、私を引き上げてくれた上司が退任し、なにか事が起きると、責任者として私が始末書を書いたり、本社に謝りに行ったりしなければならなくなりました。挙げ句、駅の掲示板に実名入りで新幹線の遅れについて非難めいた事を書かれ、責任の重さに耐えられず、体調を崩しました。
川口さんと相談し、役職を解いてもらうことにしました。正社員でもないのに責任者になるなって、といじめられることもなくなり、気持ちが楽になりました。また今は楽しく仕事をしています。パートのおばちゃんに、「伊藤さん、明日はいるの?」と聞かれることが多く、人間関係が良く、和気藹々と仕事のできる、この職場が性に合っていると思っています。

この仕事に就いてもう30年になります。この仕事ができるようになったのは阿部寮と寮母の川口さんのお陰です。改めて出会いに感謝します。

人権ネットワークに入ったのは、阿部寮の家主さんである阿部君が清水弁護士と面識があったことがきっかけで、ネットワークの行事に参加させてもらったのが始まりでした。川口さんからの勧めもあって、阿部寮の4人共人権ネットワークの会員になりました。

総会の時に川口さんから「伊藤君、理事に立候補したらどう」と言われ、すでに理事だった阿部君と一緒に理事として役割を果たすことになりました。
コロナになる前は、クリスマス会や暑気払いを事務所で行っていたので、早く行って準備のお手伝いをしたり、片付けを手伝ったりしました。理事でいること、役割を果たせることをとても嬉しく思っています。

これからも理事としてできることはお手伝いします。よろしくお願い致します。

人を好きになるとは

例えば、とっても癒やされる言葉をかけてくれたら、あなたならどうしますか?
ドキドキするくらい一緒にいたいかどうかになるかもわかりません。
では、何に対してでしょう?
もの作りで、ものすごくプロ級の腕前を持つ人がいたなら、他の人は、すっごく、めっちゃ真似ができない。
そうすればあなたは誰もが振り向くヒーローになる?いいえ、それは違います。
じゃあ、言われなくても自分から何でもやる?でも、違います。
なら、なんでしょうか。

ヒントは、この人に身を任せ、ともに協力しあい、やり切る事です。
例えば、わからないことがしばしばあるのなら救いの手を差し伸べる。倒れそうなときはともに支え合い、分かち合う。それが大切です。
あいつ、うるさいから追っ払ってよ、では、ともに支え合うことにはなりません。
私たちは、私達で未来を築くために、人や、街、環境を理解をし、支え合う。そして手と手を取り合う。それがまさに人を好きになる近道です。

私は理事ですから、会員の皆さまに人を好きになる助けとなり、みなさんと分かち合いたいと思います。

男性と女性
男のくせにだらしがないわね。と言われたらしょげます。逆に女のくせに頭働かせろよ、と言われたら女性は握りこぶしを両手に作り泣きます。
そんな世の中を、排除しませんか。
男性は女性を、女性も男性を理解する。結婚したからとはいって、すべてを変える必要はなく、これからがスタートです。

皆さん、ともに協力し合いませんか。
なぜなら、人は生まれつきだらしがない(弱い)からです。
私は少なくともそう思います。

拝啓 人権ネット様

まさに「駆け出し」の頃から育てていただいた恩を忘れたわけでは ありませんが、日々の忙しなさにかまけて、ついつい大変ご無沙汰してし まっております。申し訳ありません。
と申しましても、今は小野さんに事務所で日々の動向をチェックされておりますので、「そんなに忙しくもないでしょう。」とすかさず突っ込ま れてしまいそうです。重ね重ね申し訳ありません。何とか息災に過ごして おります。
最後に人権ネットの会合に参加させていただいたのはいつだったでしょうか。 障がい者差別解消法ができる前だったとは思いますが、障がい者 待防止法ができる前だったのか後だったのか、はっきりしません。いずれ にしてもすっかり失礼してしまっていることは確かです。
とにかく機会を見つけて(「それはいつなのだ」 と詰問されると、たち まち困ってしまうのですが)、歴史ある (本当にそう思っています。 「追従」 などではありません、決して。)人権ネットの会合にお邪魔させてい ただきたいと思っています。 その折には、あたたかくお迎えください。

ところで、私事ですが、私には2歳下の弟がいます。 彼には脳性まひ の障がいがあります。彼は、人権ネットの集まりにも、20世紀の終わりころ、人権ネットができてあまり時間の経っていないころに参加していたことがありました。 彼は当時、「『権利擁護』という言葉の中の 『擁護』が気に入らない、『守ってやる』 (上から目線?) という感じがする、偉そうに・・・」 と、そんなようなことをしきりに言っていました。
そんな彼が30歳を過ぎて、 実家を出て自立しようとしたとき(もう、 30年近く前のことになりますが) に、 私は、彼が「家事の手伝い」 などをろくにして来なかったこと (思えば私も同様だったのですが)を指摘して、 「時期尚早」と言って強く反対しました。 しかし、彼は、家族の反対に頓着することなく、住まいを決めて自立生活を送るようになり、その後、よき伴に巡り合い、目に入れても痛くない二子をさずかり、昨年還暦を迎え、仕事も定年の年齢まで全うしました。
私の「自立反対運動」 は、彼の当たり前の生活を阻害しようとする、「権利擁護的なものであったことが、彼の生き様により証明されたわけです。
私は長く障がい者分野にたずさわり、 よく人権や虐待の研修に呼ばれて話をしたりしますが、その実態は上記のとおりです。
思い起こせば、人権ネットの会合でも、 思いあがった考え言動をいろ いろとしていたなあ・・・と赤面しきり、頭を抱えるばかりです。

もともと私は弁護士になった時点では、障がい者の人権に関係する仕事・活動をしよう、などとは全く考えていませんでした。私にとって弟は 当然ながら、「障がい者」 である前に、 常に生活を共にしてきた 「家族」 でした。 そこでは、 「人権」の問題よりも、「兄弟愛」 (?) の問題の方 がメインでした。調子の良い兄と努力と忍耐の弟でした。 それもそのはず。 私は、戦後の煙が始まった頃に生まれ、バブルのころに就職時期を迎えた。 軽薄で愚かな世代なのですから。
そんな私ですが、かれこれ30年近く、行きがかり上(と言っては不遜ですが)、障がい者のさまざまな問題に関わってきました。 他の仕事をし ていた方がもっと稼げたのではないかとささやく外野がいないではないですが、私は障がい者問題に関わって来たことに後悔など全く無く、むし ろ感謝しています。 というのは、障がい者の問題は、この社会の問題点・ 矛盾点・理不尽な所を表していることが多く、考えなければいけないこと 対応しなければいけないこと、 その方向性をよく示してくれるからです。 例えば、

1 「自分にとって何が有利なのか、何が不利なのか」ということについて判断することが十分にできない人について、今の日本では、「弁護人の立会」なしに、取り調べが行われている。

2 弁護人が(コミュニケーションの難しい) 被疑者と2時間接見しても、本人からろくに事実を聞き取れない状態なのに、 警察検察では日々、自白調書が 粛々と作られている。

3 非常に迎合しやすい、あるいは「オウム返し」の返答ばかりの人に、平気で 「誘導的な質問がなされ、それに基づいて犯罪のストーリーが作られていき、その結果、本人が行ったことのない場所での実況見分調書が作られたりする。

4 有利不利の判断ができないだけでなく、弁護人が一所懸命説明してもなお、自分の周りで行われている手続のこと (逮捕・勾留 黙秘権、警察、弁護人、 検事裁判官、裁判)を理解できない人についても、満々と司法手続は進んで いく。

5 自分の行動をコントロールすることができない隙がい特性のある人についても 「責任能力」 が全面的に認められる。

6 多くの検察官は、障がい特性に理解を示すことは職責に反する、と思っているようだ。
多くの裁判官は、「障がい」 についてよく勉強はするが、具体的な障がいの ある本人のことについてはあまり興味がないようだ。

7 事実や状況を「常識」的に理解・把握することや、 通常人が持つ感情に思い至ることが苦手な障がい特性のある人にも、「反省」の弁を求める。 そして 「反省」 の弁がないと、重く罰せられる。

8 適切な支援が構築されていないために、同じ失敗を繰り返す。 そして、繰り 返すのは反省がないからだということで、重く罰せられる。 そして、本人だけが責任を負う。

9 コミュニケーションや判断に弱さのある障がい者は、言い訳が下手。 逃げるのも下手。 うまく立ち回るのも下手。その結果、重く罰せられる。

10 所謂 「健常者」 とは認知・認識の内容が異なる 「障がい者」 が事件を起こすと、不可解な事件になりやすい。 そういう事件は報道されやすい。 そして大々 的に報道されると、 社会的な影響が大きいということで、刑が重くなる。

とかく社会の色々な問題点・矛盾点・理不尽なことは、その社会において弱い立場状況にある人たちのところで顕著に表れるものですよね。 自分のやっていることの意義を確かめながら進んでこられたのは、この 「障がい者」の分野の問題に関われてきたからだと思っています。

今後も行きがかり上(とまたまた不遜ですが)、 一生を終えるまで、障がい者の問題にずっと関わって行くだろう、と思います。
弟の存在ゆえにこの分野に関わるようになったわけではありませんが、 弟の存在をきっかけに、「障がい」 というものに対する違和感を持たず、社会の「障がい」に対する視線・視点扱いに違和感を持った。 それがこ の分野に関わることにつながった、ということは確かだと思います。
弟に感謝です。 そして、 外野のたわごとをモノともせずに自立した弟を、尊敬しています。(奥さんや家族にはいろいろご負担をお掛けしただろう、とは思いますが。)

そして、この分野に関わり始めたころに、いろいろと教えていただいた。 人権ネットの皆様 (思えば、本当に、いろいろな立場・職種の方々がおら れて、いろいろなお話の中からも、知らず知らずのうちにも、多くのこと を学ばせてもらっていた、と思っています。) にも、どれだけ感謝しても 足りません。

と言いながら、これからも、なかなか会合に参加できず、失礼してしまうのだろうなあ・・・と軽薄かつかに思っています。(弟から、調子ばかり いいんだから・・・、 だから「権利擁護」 なんて言葉を偉そうに使っている奴 は信用できない・・・ と言われますね、確実に。)

だらだらと、 心に移り行く由無し事をそこはかとなく書きつくって来て しまいましたが、 人権ネットが今後も末永く続いて行くことを、心から願って止みません。

敬具

憲法制定の話

1 改憲派・護憲派双方への疑問

ウクライナでの戦争がきっかけとなって日本国憲法「改正」の声が大きくなっています。憲法について議論することはとても大切なことですが、憲法制定過程のことを知る人は多くありません。憲法学者ですら知らず、あるいは軽視・無視して解釈論をする人がいますし、司法試験に制定過程や9条の問題は出題されませんので、弁護士でも制定過程、9条の成り立ちを知る人はあまりいません。そこで、よい機会ですので、現行憲法制定過程について少しお話します。

私は以前から改憲派に対しても護憲派に対しても批判的な考えを持っています。改憲派は今の憲法は 「押し付け」だと主張していますが、制定過程をきちんと見ればそんな単純なものではないことがわかります。一方、護憲派、特に9条原理主義のような立場の人も制定過程での複雑な国際政治の力学や 背景をよく知らず、理想論ばかり言います。

改憲派も護憲派もそもそも憲法を読んだことがない人が多く、ろくに読みもしないで、変えろだとか、護れだとか、ただ雰囲気だけでワーワー騒いでいるだけのように思えます。護憲派の人でもせいぜい9条と前文、あと25条の生存権ぐらいしか読んだことがない人が多いようです。ゆっくりでも1時間ほどで読めます。 まず読んでから議論すべきです。

ついでに大日本帝国憲法 (明治憲法) も読んでみるといいと思います。 文言の意味すらわからないと言う方が多いでしょうが、比較するという視点も 大事です。 例えば、現行憲法では女性の参政権は当然認められていますが、 旧憲法では参政権がないことで違憲の問題は生じませんでした。

なお、よく世論調査等で 「改正」 賛成か反対かという設問がありますが、その前に 「読んだことがありますか?」 と言う設問を設けるべきです。その上で、次の質問として改定の有無を具体的に尋ねるべきです。 読みもしない で賛否を答えることはできないはずです。また、「改正」ではなく価値中立的な「改定」あるいは「改訂」という文言を使用すべきです。

2 ポツダム宣言受諾と憲法改定

よく日本は無条件降伏したと言われ、学校でもそのように習ったと思います。 しかし、ポツダム宣言の中味は、「以下の条件」との文言があるように いろいろな「条件」 が付されています。 しかも、その「条件」は日本が遵守すべき条件の他にも連合国が遵守すべき条件があります。 例えば、ソ連のシベリヤ抑留はソ連がポツダム宣言の条項に違反したものです。 日本に課された条件はいくつかありますが、基本的人権の保障、民主的政府の復活等があり、旧憲法をそのままにしておいてはこれらの要請に応えることは困難だとして、改定の方向に進みます。 ですから、現行憲法制定はポツダム宣言受諾の経緯と条件から論ずる必要があるわけです(アベ元総理はポツダム宣言を読んだことはありません)。ついでに言うと、ポツダム宣言には戦争犯罪人を処罰するとの「条件」 があり、これを履行したのが東京裁判等の戦争裁判です。
ただし、この内容にいろいろな「条件」 がついているものをそのまま受諾せよ、つまり、「受諾」 するかしないかの選択はできないという意味では、「無条件降伏」 と言っていいかと思います。また、 受諾にあたって日本政府が唯一「条件」をつけたのが天皇制の維持でした。この唯一の条件がその後の新憲法制定にも大きな意味を持ちます。

3 天皇維持・憲法9条・沖縄

マッカーサーは占領政策には天皇を利用することが必要不可欠と考えてい ました。アメリカでも昭和天皇の戦争責任を追及せよとの声が多く、 また、中国、ソ連 オーストラリア、ニュージーランドも天皇の処罰を求める要求が強く、マッカーサーは、象徴天皇とすることと戦争放棄の9条とのバータ 取引をして納得させました。 天皇を利用しての軍国主義復活を恐れる諸国に戦争放棄をさせるから象徴天皇制は認めろと 「なだめた」 わけです。 日本 政府としても天皇の大権は奪われたが、象徴として憲法上の制度は維持できたので、 「こんなもんだろう」と一応は是認したわけです。
ところで、ソ連との冷戦はすでに始まっていました。 マッカーサーは甘くはありません。 マッカーサーが考えていたのは日本本土非武装、しかし、沖縄は武装するということです。 沖縄に基地を置けばソ連を牽制できると考えて、アメリカ政府が本土武装を主張した際も反対しました。 天皇制維持 = 9 条による本土非武装=沖縄武装。 これが戦後日本・沖縄の構図なのです。 護憲派はほとんどこのことを知りません。 「9条の会」 でこのことを意識しているのは高橋哲哉だけです。
今も続く沖縄の基地問題はこの時から始まり今も変わりません。 全国の米軍基地の70%は沖縄にあります。 この現状に対して責任を負うべきは護憲派も同じだと私は考えています。 私はこれまで辺野古の土砂搬入阻止活動に 7回参加していますが、本土国民としての責任を感じているからです。

4 日本政府民間人GHQの各憲法案

法制定過程の話に戻りますが、GHQは最初は日本政府が自主的にポツ ダム宣言に沿った内容の憲法改定案を出して来ることを期待していました。しかし、1945年2月1日の毎日新聞のスクープによって、日本政府の憲法調査会の案が旧憲法とあまり代わり映えしないものであることがわかり、 任せておけないとして、GHQの民政局が憲法案を作成することになります。 そして、日本政府にGHQ案を突きつけます。そこで後に「押し付け」とい う評価が出て来るわけです。
ところで、1945年10月から、日本の評論家経済学者・学者ら 民間人が憲法研究会を結成し、 新しい憲法案を作成します。 彼らのほとんどは戦前戦中に言論弾圧された経験がありました。 憲法案は英訳文とともにGHQに提出し、GHQも独自に英訳します。そして、それを参考にしてGHQは憲法案を作成して行くのです。 GHQの民政局で作成の実務上の責任者であったケーディス陸軍大佐 (弁護士出身) やラウエル陸軍中佐(弁護士出身)は後にインタビューに答え、憲法研究会の案について 「多いに役に立った」「これでやれると思った」などと答えています。 実際に憲法研究会の案と現行憲法を比較すると類似点がいくつもあります。
なお、改憲派は、「今の憲法はアメリカの素人が作った」 などと言います が、GHQは運営委員会を作りその下に「法律」「行政」 などの小委員会を 作るというやり方をしましたが、この運営委員会のメンバーは先のケーディ ス、ラウレルの他、海軍中佐のハッシー(弁護士出身)の3人で、皆法律家で素人ではありません。 小委員会のメンバーも弁護士や経済学者等が占めま した。

5 国会での修正 9条の解釈

その後、この憲法研究会案を参考にしたGHQ案が修正されて国会に上程 されますが、当時の議事録を読むと非常に熱心に討識されています。みな真剣でレベルが高く今の国会議員とはだいぶデキが違います。 この国会の審議 でいくつか重要な修正がありました。 一番大きいのは25条の生存権規定の 追加だろうと思います。 これは社会党 (森戸辰男)の提案が基になったもの です。 現在でも福祉の問題を考える上でこの25条生存権は非常に重要な意 味を持っていることは言うまでもありません。 日本側が入れたものです。
義務教育の無償化もそうで、 他にもありますが、もう一つだけ言うと、9 条の主語を 「日本国民」としたのも社会党 (鈴木義男) でした。 憲法の条文で主語が 「日本国民」 となっているのは、この条文だけなのです。 「日本政府」 ではなく、「日本国民」 が 「侵略戦争はしない、 紛争を武力で解決しない」と世界に宣言したわけです。
この9条が戦後最大の政治的争点となりました。 マッカーサーの指示は自衛のための武装も放棄するというものでしたが、9条を担当した先のケーデ イスは国家に自衛権があるのは当然だと考え、マッカーサーの指示を無視しました。 ケーディスは後のインタビューで、そのことをはっきり述べていま す。
憲法学者の中には9条は自衛すら否定しているとの意見の人もいます。 制定過程から解釈すれば、9条は自衛権を容認しているということにな ります。 「専守防衛」の限度で自衛権はあるという解釈です。 そうすると、 実際の自衛隊の装備はどの程度にするのかという問題が出て来ますが、今アベ元総理らが主張する「敵の要」への攻撃は専守防衛を超え、憲法違反となる可能性が極めて強いと思いますし、逆に日本が攻撃される可能性も高まるでしょう。 沖縄の人は沖縄の地上戦をウクライナ (地上戦です) に重ね合 わせ強い危機感を持っています。

6 最後に

長くなってしまいましたが、これでもすべてを言い切ることはとてもできません。 乱暴なまとめですが、 現行憲法制定には 「押しつけ」 的要素はあったが、 内容は日米共作であると私は考えています。 そして9条の理想を喧伝するの はいいとしても沖縄を犠牲していることを忘れてはならないと思います。 ここまで読まれて、私のことを「護憲派」と思われる人が多いかと思いま すが、私はこの憲法をもっとよりよくするための 「改憲」なら賛成です。 例えば、GHQの憲法案では 「人の権利」となっていたのを日本政府側は「国民の権利」 と巧みに訂正したのですが、これを「人の権利」に戻す。 憲法14条に 「障害」 による差別の禁止を明記する。 憲法尊重擁護義務違反の公務員に対して法律で罰則を定める等々です。
故加藤典洋や伊勢崎憲司等もよりよい方向への 「改憲」を主張しています。 作家の池澤夏樹は、これを「左折改憲」 と言い、 自民党の改憲案を 「右折改 「意」と評しています。 自民党案は話にならないほどひどいもので、近代憲法 は権力を縛るものだという基本中の基本がわかっていないものです。
権力を縛ることができなかったため、日本は軍部が暴走し、アジアで数千 万人の犠牲者を生みました。 日本人の犠牲者だけでも310万人です。 今の 憲法はこれらの犠牲の代償としての「賜物」 です。 戦争は「敵」を殺せとの 命令ですが、自国民に対しても死ぬことを命令します。 最大の人権侵害と言えます。
障害があろうと、人種が違おうと、 宗教が異なろうと、性別が異なろうと、 誰もが「個」として尊重されるべきというのが憲法の「」です。 過程について知ればいっそうそのことの大切さが理解されるのではないかと 思います。

長い文章をここまで読んでいただいたあなたに感謝します。

あれから四半世紀

清水先生、大石先生、 事務局の小野さん、 田中先生、人権ネットの皆様、大変ご無沙汰しております。この度は会報100号記念号発行おめでとうございます。

ここでは人権ネットにお世話になった経緯とその後の娘の様子について書かせて頂きます。先天性の病気、骨形成不全症という病気を持って生まれたあずさは1歳になってお座りすらできず、保育園に入れず困っておりました。はじめは、経済的な理由などで保 育園入園を希望しておりましたが、色々な方の話を聞くうちに、本人が友達を求めるように なる地域の幼稚園、小学校に入るのを望むようになるとのこと。 しかし、受け入れてもら うのが、いかに大変かが分かってまいりました。そんな時、人権ネットを知り、保育園入園、 学童保育の入所などで大変お世話になりました。 孤立無援の中、どんなに心強かったことか。 学校は、本来、国民の意識改革のためにも率先して変わらねばならぬ場所だと思うのですが、 障害児排除のスタンスは今も変わっていないようです。現在は特別な教育を望む障害児の保 護者が以前よりも増えているようにも感じます。 そして、普通学校に行きたいごく少数の親との間で大きな分析が起きているようで心が痛みます。

さて、車いすの娘は、小学校、中学校と地域の学校で学び、 県立高校に進学しました。卒業後は民間企業に就職し、なんとか首にもならず、今日に至っております。成人式では高校の友達が自分の成人式を欠席までして、 あずさの車いすの介助に来てくれました。 本当に嬉しく思いました。 また、20歳からマンションを借りて独り暮らしを始め、 早7年が過ぎま した。最近は中学校の友達が急に次々と結婚して、 本人少し落ち込んでいる向きもあります が、報告にと集まったお友達と楽しい時を過ごしたようです。 障害のある子ども皆にとって、 普通学校が良い選択で良い環境とは思えませんが、 娘の場合、 友達という宝物に出会えて本 当に良かったと感じています。 保育園に行ったことで、集団生活を経験しているという実績が小学校での受け入れを容易にし、小学校での生活が中学校へ、そして高校へと繋がったと 思っています。 今日があるのは人権ネットのお陰だと思っております。 本当にありがとうご ざいました。

人権ネットワークと私、などなど

人権ネットワークに関わらせていただき、お知り合いになれたあの人、この人、 私は事務局をやらせていただいて本当に良かったと思っています。 事務局特典。

皆さまのお顔を思い浮かべながら、うん、うん、こんな思い、こんなことを感 じてくださっているんだなとフライングして読ませていただき、改めて感じ入りました。 いいことばかりでもなかったけれど、今はいいことだけしか残ってい ないので、私は幸せな仕事をさせていただけていると感謝しています。 たくさんの素敵な人とお知り合いになれたし、大石先生のところで働かせていただけたし。

いつまでたっても未熟者ですが、これからもよろしくお願い致します。

今回、 原稿到着を待って少し時間がかかったということもありますが、 我が家に思いがけずコロナがやってきて、予想外のことにあたふたして作業が進まなかったことも発行が遅れた原因の一つです。すみません。

我が家は主人、息子、 私、それに義母の4人です。主人はかねがね「おばあちゃんがいるから、ふらふらしていないで帰ってこいよ。おばあちゃんがコロナに感染したら大変だからな」 と言っていましたが、まさか、まさか主人が発熱。 この時期のことですから、コロナを疑い、発熱外来にかからなければと行きつけ の医師会病院に電話をかけるのですが、 全くつながらない。区や都のコロナの医 療機関紹介センターにも連絡をしますが、そこで紹介され、やっと連絡ついた 院に予約しようとしても、発熱者が多く手一杯ですの返事ばかり。18,19,20 日と朝8時30分から電話を架け続け、やっと取れた予約は土曜日の豊島区の外れの病院です。 4日目からは主人の熱も下がり、喉の痛みと咳になりましたが、保健所に連絡すると、やはり発熱外来に行ってくださいとのこと。 熱が出てから 3日も受診できなかったら、体の弱いお年寄りや一人暮らしの人など重篤な状態 に陥っても仕方ないなんてこと、と思います。
発熱外来の医師の診断がない限り、保健所はコロナ感染者として扱わず、家族に対する指導もできないとのことです。 主人は娘が送ってくれた抗原検査キットで調べたところ、陽性と判定されたのですが、そのことを伝えてもなお、医師の診断があるまでは陽性患者ではないとのこと。ひどいな、無策だなと、遅れた体制に怒りたくなります。 息子、私の三人は熱もなく、医療機関の「絶対家族も感染します」の言葉に抗い続けています。 息子、私は無料のPCR検査を受け、陰性です。
とっかかりのところで大きな間違いをしています。まず、速やかに診断、これができなければ感染者を減らすなど無理だと感じました。そして、自己防衛の大切さもひしひしと感じています。主人が診断を受けられる翌日には、濃厚接触者 この自宅待機が解除され、その2日後には主人も完治とみなされます。納得いか ないですよね。

コロナとともに今気をつけなければいけないのが、熱中症。 整形外科で看護師 をしている娘の話です。 娘の勤務する病院に高校生の女の子が入院し娘が担当になったそうです。その子はクラブ活動で熱中症になり、水分の補給もせず、休んでいて、その後救急車で搬送されたのですが、病院に搬送されたときには、どろどろになった血液が足の血管を塞ぎ、それが長時間に亘ってしまったため、結局両足切断になったそうです。 熱中症の怖さを改めて知りました。 水分補給、水分補給。 娘が注意喚起のつもりで怖い話をしてくれたのだと思います。みなさん、 熱中症は怖いです。くれぐれも気をつけて下さい。

そして、息子の話。
コロナで一日休みになった息子と久々長時間いっしょにいて話をしました。 検査のための一日でも退屈なのに、これが10日も続いたら俺は死んじゃうと言います。 おばあちゃんはずっと家にいなくちゃいけないから、退屈だろうなという話になりました。 主人に暑いとき庭に出るのはやめるように強く言われているから、主人が熱で隠せっている時、こっそり庭の掃除をしてくれます。
おばあちゃんはすっきり、きれいにしたいと考えるから、お母さんが楽しみに していた花苗とか、やっと芽が出たばかりのものまで、みんなむしり取っちゃうんだよと私が愚痴っぽく言うと、息子は、「植物はまた生えてくるけど、おばあちゃんはもう生えてこないからな」とぽつり。
そうだね。 こんなことくらい、 いくらでも我慢できるものね。

「嘘と裁判」

本誌98号の投稿では、妻(母親)のマルトリートメント(不都合な養育)が二人の子どもたちへいかに精神的悪影響を及ぼしたか、また一方で妻の夫に対するマインドコントロールにより妻が夫からいかに多くの金銭を収奪していたか、その実態をお話しさせていただきました。

そこで今回はそれらの帰結として生じた「裁判(調停)」について話してみたいと思います。「言った」「言わない」、「やった」「やってない」、世に争いの種は尽きませんが、私どもの「裁判(調停)」もこれが論点でした。以下、その経緯を3人称で略述させていただきます。

夫は平成20年(2008年)、妻からの申し出で27年間連れ添った妻と離婚しました。その際、妻から下記の3点が離婚条件として口頭で提示されたのです。

① 住んでいる家はあなたにあげるわ(妻の所有持ち分、2分の1を放棄)。

② 代わりに年金を半分ください。

③ (日を置いて)、さらに300万円ください。

この3条件を妻が言ったか言わなかったかが、「調停」の争点になりました。例え口約束とはいえ、長年の夫婦の信頼関係から約束は守られるであろうと、文書にすることはなかったのです。しかしこれは大きな間違いであったことを、夫はのちに思い知らされることになります。果たして妻はそれから10年後、一度は放棄したはずの所有権を改めて主張し、弁護士を立てて訴えて来たのです。

夫は離婚当時、妻の要求する年金分割を早急に実現すべく、社会保険事務所に出向き、そこで公正証書が必要だとの指示を受けて、後日、夫婦で公証人役場に同行することになりました。本来ならここで離婚3条件すべてを公正証書にうたうべきでしたが、条件②の年金分割の項目だけが記載されていて、他の2項目は記載がありません。その理由は当時、妻への年金分割を成就することだけが夫の脳裏を占めており、所有権の移転にはついては思いが至らなかったのです。それを隣で見ていた妻は、内心でさぞほくそ笑んでいたことでしょう。もしこの3条件すべてが公正証書に入っていれば、その後の妻の邪(よこしま)な考えが浮上することはなく、理不尽な訴えも起きなかったのです。かくすれば夫は清水先生に弁護を依頼することもなく、NPO法人 精神障害児・者人権ネットワークの活動に参加できる縁もなかったのです。

つまるところ、離婚条件が口約束で終わったのをよいことにして、妻が10年後にさらなる財産的野心を抱いたのです。今回の騒動はそんな条件の約束はしていないと妻が「嘘」をついたことに起因するものでした。妻の弁護士もまた登記簿謄本を見せられて、単純に「これは勝てる案件だ」と踏んだに違いありません。

その上、妻はさらに嘘を重ねます。夫と公証人役場に同行したことを、「夫に無理矢理、連れて行かれた」と証言したのです。これを伝え聞いた夫は思わず絶句、見え透いた妻の「嘘」にあきれ返ったものでした。妻への年金分割を実現するためにこそ公正証書が作成され、夫婦ともに公証人役場に足を運んだのではなかったのか!そうでなければ公正証書などは作る必要がなかったのです。このように「嘘」を平気でつく妻でした。これが妻からの理不尽な訴えの真相です。

離婚条件③の300万円については、夫はすぐさま現金300万円を用意し、妻の指定する場所に出向いて、そのまま妻に手渡しました。その際、領収書の手交はなく、ここでも夫は妻を完全に信じ切っていたのです。疑問なのはこの時、なぜ口座振替でなく、現金での手渡しを妻は要求したのでしょうか。ここには妻の深慮遠謀がうかがえます。夫から妻への300万円の送金の痕跡を残したくなかったのです。口座上のデータ記録を回避したかったのです。

「自分は夫から300万円などはもらってない」、だから家の所有権を放棄するなどの約束もしていない、そうした事実は一切ない、あるのは年金分割の事実だけである、との論理を主張したかったのでしょう。これは実に手の込んだカラクリで、推理小説並みの計略です。とまれ夫は妻から命ぜられるままに300万円を現金で渡し、素直に実行したのでした。夫は妻になんの疑いも持たなかったのです。ここには妻のマインドコントロールの支配の影が色濃く影響しています。

しかしそうした妻の小細工にもかかわらず、上手の手から水はこぼれるものです。清水先生が指摘されたように、300万円の送金記録は無くても、夫の預金通帳にはその出金記録が印字されていたのです。しかしながら、これはただ離婚条件③の傍証にはなり得ても、確固たる証拠にはなりません。まして条件①の不動産持ち分の移転登記については、公正証書に記載がない以上、如何ともしようがないわけです。ここにおいて、「調停」は暗礁に乗り上げてしまいました。

されど正義は見逃されることはなかったのです。この後、調停は驚くべき展開をたどることになって行きます。それについてはのちほど触れることにして、以前に詳述した妻のマインドコントロールについて話してみたいと思います。

夫は、妻が幼き頃に経済的困窮で苦労した話を結婚時にしみじみと聞かされ、「この人を一生をかけて幸せにしてあげよう」との固い決意にほだされたのです。そしてそれが魔物のように長きにわたり夫の心に住み着いてきたのです。その結果、出会い当時から会社の給料を妻に渡し、ボーナスも当然のように妻の手元に、さらには退職金1千700万円を含めた家計の裁量をことごとく妻に委ねてきたのです。加えて夫の副業である披露宴司会で得た多額の副収入も、5千~1万円のチップも含めてすべて妻に渡してきたのです。他にも、すべて妻の希望から始まった計4回の住居移転。これで少なくとも3千万円の譲渡損失を生じ、のちほど言及する夫から妻への仕送り合計800万円、夫と次女が無理やり追い出された際の賃貸マンション料700万円などが、不要な金銭として泡と消えて行ったのです。夫はいったいなんのために土日祭日の休みを削ってまで、あくせく副業の披露宴司会に精を出してきたのか、家族の幸せのために汗を流してきたのではなかったのか?

さらに精神的病いを被った次女への長年にわたる毎月15~20万円の生活費(夫は障害年金制度を知らず、かなり遅くなってからの申請でした)の累計およそ2~3千万円等々、相当な金銭が消えて行ったのです。これらはおよそ夫の給料からまかなえるような金額ではなく、披露宴や葬儀司会のアルバイト収入で補填されていたのです。

そしてこれら別途収入が妻の金銭感覚をマヒさせてしまったことは否めません。妻は「あなたのアルバイト料で生活費はまかなえ、給料やボーナスはそっくり貯金できるわ」と豪語していたのですから。

今、老後に2~3千万円が必要などと叫ばれている時代にあって、こうした浪費が無ければおそらく相当の資金が夫の手元に残っていたはずです。一方金銭感覚に鋭い妻は、その辺のことは十分計算づくででしょう。今、実家近くの上尾市宮原のマションでただ一人、優雅に暮らす妻の口座には、夫が副業の司会で稼いだ多額の入金記録がびっしりと印字されているはずです。

その妻は次女の繊細な性格に手を焼き、中学入学式で不登校になった次女の養育を放棄し、以来、ずっと夫が次女の面倒を見てきました。長年、集団ストーカーの妄想被害に悩まされ、リストカットや精神薬の大量服薬(オーバードーズ、OD)を繰り返し、希死念慮の危険を感じながらの次女との同居生活は、決して容易なものではなく文字通り苦難の道でした。あげくに強制的に次女と夫が家を追い出され、武蔵浦和での家賃12万円のマンション生活が約5年続き、これも700万円余の余計な出費となりました。

その上働くわけでもなく、子供の養育もままならない妻に、夫はやんぬるかな、さらなる金銭援助をしていたのです。実家に居座る妻に月20万円の仕送りを長期にわたり振り込んでいたのです。妻が可哀想だとの思いからの仕送りは合計800万円超に上ったのです。やがてこの仕送りは離婚後の妻の住まい、マンションの購入資金へと変身していったのです。すべては妻の奸計でした。そんなこととは露知らず、夫は離婚後の妻の住まいをいたく心配し、どこに住むのだろうか、経済的に大変なのではないか、などと思いやっていたのです。マインドコントロールがなせる術です。

このマンションの購入にあたっては、妻は「絶対に誰にも言うな」と同居する長女に固く言い含めていたのです。資金源があからさまになることを極力、恐れていたのでしょう。長女は同居するマンションから追い出されるのが心配で10年間、黙っていたのです。恐ろしくて言えなかったとも述懐しています。長女も妻からのマインドコントロールの犠牲者だったのです。妻は離婚する前から離婚後の自らの住まいを手配し、そのことをずっと隠していたのです。実に用意周到な計画的離婚劇でした。しかしながら用意周到は住まいの確保ばかりではなかったのです。年金分割の法律が施行されるまで、妻は離婚を言い出すのを辛抱強くじっと待っていたのです。そしていざ法律が施行されるや否や、唐突に離婚話を持ち出してきたのでした。あっばれ見事な離婚計画です。知らぬは夫ばかりです。妻のこうした行動はまさに夫を裏切る行為です。夫は今回の妻の起こした訴えも、調停という形でなく、正式な公判になればいいと半ば期待していました。多くの傍聴人が見ている中で、妻が離婚3条件の「嘘」をどこまで貫き通すことができるか、実際の公判廷で見てみたかったのです。

ここで調停についてその大筋を簡単に説明しますと、埼玉家庭裁判所で二人の調停員出席の元、2~3回の審理が開かれたあと、この家の妻の2分の1の持ち分と、妻の住むマンション所有権との等価交換という形で審決したのでした。形の上ではそうなるわけですが、そこにはやや複雑な事情が介在しています。まずそれまで明かされていなかった妻の住むマンションの存在が、ここで明らかになったことです。夫は10年間その存在を知らなかったのです。なぜ秘密にしたのかはその資金源にあるわけで、夫からの仕送りや夫のアルバイト収入などを妻がため込んでいた金銭が、購入資金に当てられたからでしょう。その痕跡が公になるのを妻は極度に恐れていたのです。

マンションの購入契約時には司法書士や銀行マンが同席する中、妻の手から1千5百万円の札束がボンと投げ出されたと、同席した長女は証言しています。長い間、専業主婦であった妻が、どうしてそんな大金をすぐに用意できるでしょうか。その時の一部始終を、妻と同居していた長女が後になって証言することになったのです。証言することになったきっかけは、妻(母親)のこの訴えに端を発して交際相手の不動産鑑定士が嫌気をさし、婚約を破棄されてしまったからでした。まさに長女の恨みの一撃でした。

さらにこの隠れマンションの存在が明らかになった直後、妻側の弁護士は妻の弁護を辞退する旨の書類を、清水先生に送ってきたのでした。「こんな調停には付き合っていられない」と判断したのでしょうか。ここでも妻は弁護士に「嘘」をついていたのです。弁護士に、家の半分は妻の持ち分であるとの表面上の登記簿謄本を見せただけで、隠れた事情は一切、明かさずに依頼したのでしょう。それを鵜呑みにした弁護士は「この案件はいける」と軽く判断して引き受けたのでしょう。これは弁護士とともに妻の勇み足でもあったのです。

その新事実が表面化してから調停は動き出しました。この家の半分の妻の持つ所有権と、隠れマンションの所有権を等価交換しようとの解決案が浮上してきたのです。

ここにさらに複雑な事情がからんできました。その隠れマンションの所有権者は妻の名義ではなく、長女名義になっていたのでした。なぜそうしたのか?妻の良心の呵責でしょうか。それは老後の面倒を見てもらおうとの深慮遠謀からではないかと想像できます。妻は先々を見通すことには人一倍、たけていますから。

そのことを裏付けるかのように、ごく最近になって長女のもとに母親からメールが届きました。「○○ちゃん(長女)にプレゼントがあるから来ない?」との誘いの内容だったそうです。メールを開いた途端、長女は強い恐怖心に襲われたそうです。長い間、言いなりにさせられ、服従してきた母親の存在が極度のトラウマとなって噴出してきたのです。

今、妻は財産はあっても、精神的な孤独を感じているのではないでしょうか。その寂しさと将来不安に耐えかねて、長女にメールを寄越したのかも知れません。これに対する長女の妻への辛辣な返信については、後から触れることにします。

とまれ幸せの結婚を邪魔された長女は、間もなくして悲しみを抱えながら父親と同居することになるのです。やっと母親のマインドコントロールから解放される時がきたのです。しかし夫と同居してからも長女の婚約破棄の悲しみは癒されず、父親は傷心の娘を慰めながら、しばらくはともに涙することになるのです。

話を調停に戻します。

調停の最終局面になってから、隠れマンションの長女の所有権と、実家の半分の妻の所有権を等価交換しようとの案が浮上してきました。この時、妻の弁護士が新たに依頼されることはなく、清水先生が両者の橋渡しのような形になっていました。相争う両者の中での役回りとしては、こういった形もあるのでしょうか。

そうしたなかで妻はこの案に乗り気でした。このまま隠れマンションの所有権を長女のままにしておけば、妻自身の住む場所が危うくなるからです。妻から訴えられた当初の夫とまったく同じような立場、境地に、逆に妻が追い込まれたのです。「策士、策に溺れる」とはこういうことだったのです。夫から巻き上げたマンション資金が、図らずも夫と同居する長女の元に帰ってきたのです。夫の稼いだ金銭が、マンションの形を取りながら巡りめぐって、妻から夫の所に戻ってきたのです。天は正義を見捨てなかったのです。それで清水先生は「このままにしておきますか?」と問うてきました。

一方、そうした動きの中で妻の立場は急展開しました。自業自得とはいえ、ほっておいたら今度は自分がマンションを追い出される局面に発展してしまったのです。妻は焦りました。それであれほど夫との電話連絡を拒否していたにもかかわらず、この調停の終局面に於いて妻が突然、夫に電話をしてきたのです。

「お願いします。等価交換にしてください!」

悲鳴にも近い、泣きの涙で訴えてきました。

「私は眼科医から言われてるの。○○という眼病で失明してしまうの」

と、今にも泣き出すかのような、か細い哀れみをさそう声でした。それにしても見事な演技力です。妻は性懲りもなくここでもまた究極の「嘘」をついてきたのです。そう、なんと言うことはない。その○○という病名はネットでみると、高齢になれば誰でも罹患しておかしくないごく一般的な眼の病だったのです。妻の最後の悪あがきでした。

結局、夫は最後にはこの妻の要求を飲んで等価交換にしたわけですが、ここに於いても妻のマインドコントロールがまた夫の心の奥底で頭をもたげてきたのです。

「妻が可哀相だから・・・」

この期に及んでなお、夫は妻のことを案じていたのです。結果、長女と話して等価交換を受け入れることにしたのです。またしても妻の策略にはまってしまったのです。恐ろしいことです。この微妙とも言える精神作用については、本誌98号にその医学的心理構造も含めて詳述しています。概してマインドコントロールというものは、それを受けている当人はそのことをまったく意識できないままに、相手の言う通りに行動してしまう。それが恐ろしいところなのです。

最近の事件で同じようにマインドコントロールされた母親が我が子を餓死させた、との悲しい報道がありました。ママ友に心を支配された母親が、ママ友の言うままに食事を与えなかったという事件。餓死する5歳の子どもは最後にこう言って息を引き取ったそうです。「ママごめんね」。母親に邪険にされながらも、たとえ死の縁にあってもなお母親をかばう、そのか細い叫びは、まるで天使のささやきにも聞こえてくるようです。なんともいたたまれない事件でした。思わず涙腺が緩むのを覚えます。母親には懲役5年の判決が出て、今後はママ友の裁判が進行していくようです。報道によると、ここでもマインドコントロールが大きな論点になるようです。母親を心理的に支配していたママ友は、自己の裁判でも「嘘」をつき続けるとの観測も流れています。「嘘と裁判」、これはまさに永遠のテーマと言えましょう。

妻からの哀れみをさそうメールがつい最近、夫と同居する長女に届いたそうです。

「○○ちゃん(長女)に買ってきたいいものがあるから来ない?」というような内容だったとのことです。長女はこれに対してメールではなく最後の手紙を書いて送ったそうです。『自らの弱さを出汁にして、相手を懐柔し、言いなりにさせようとする手段はもうやめたらどうですか!』、と母親を諌める内容だったそうです。まさに妻のマインドコントロールです。心理学の理論を踏まえて説諭したそうで、長女は精神医学や心理療法を深く勉強しているのです。果たして母親を思う長女の気持ちがどこまで届くか、またこれを期に少しでも母親の改心が見られるのか、それは未知数ではあります。しかしながら、「あなたの物がまだ残っているのよ、早く取りに来て」と言い募る返信メールが来たのを聞くと、難しいのかも知れません。

最後に朗報をお伝えしたいと思います。あれほど苦難に満ちた次女とのアパート生活でしたが、やっと次女も精神疾患で悩む人たちが集うグループホームに入居することができました。

会員の皆さま、そして編集子にはご心配いただき心より感謝致します。ありがとうございました。

裁判というものは、多くは当事者のどちらかがついている「嘘」が根底にあるようです。その嘘を公の前で吟味して、白黒を明らかにする人間社会の知恵なのでしょう。

先日、新聞に「ウソ発見器」の進化の話題が載っていましたが、そう、この発見器の技術がより高度化し、AIのように飛躍的な変化を遂げる時が来たら、裁判というものも大きく変容していくのかも知れません。

カンヌ国際映画祭で激賞された黒澤映画「羅生門」でも、人間のつく嘘がいかに人それぞれであるかを、見事にテーマ性を与えていました。これからも人間社会で「嘘」は横行し続けるでしょう。そして裁判の種は尽きそうもありません。

人生も最終盤に近づいて来ますと、我が歩みは苦難の連続でした。それも普通の善き夫婦のように、同じ方向を向いて共に歩む妻の存在があれば、もう少し花開いたことでしょう。外で百人の敵と戦う夫には、家庭という安住の地はなかったのです。それどころか妻に後ろから鉄砲で打たれる始末でした。そして家族みんなの人生が、この妻によって狂わされてしまったことは確かです。

振り返ると、あまりにもスケールの小さな我が人生に情けなくなります。

しかし一つだけ良いこともありました。およそ1千件余の披露宴と2千件を超える葬儀司会に携われたことです。披露宴では喜びの感謝の手紙が数多く手元にあります。

青山葬儀所で社葬の司会をしていたら、参列者から突然声が掛かり驚きました。聞けば以前に披露宴の司会をしてさしあげた新郎さんとのことでした。声でわかったそうです。こうしたエピソードは枚挙に暇がありません。副業の司会はまさに天職でした。楽しき思い出です。

その人生の最終盤で腎臓癌を宣告されました。ストレスが溜まっていたのかも知れません。さらに次女の問題が解決して夫が長女と暮らすなかで、今度は長女にADHDの診断が下りました。長年、その生まれながらの「特性」に悩まされて、生きにくさをなんとか凌いできたのでしょう。大変だったと思います。そのことに気付かず、次女にばかり寄り添ってきた我が身を反省しています。これからは長女に寄り添う時間が増えそうです。まだまだ私にはやらねばならぬことがあるようです。

この次の会報では、夫のがん闘病記と長女の奮闘記を投稿することになるかも知れません(笑) 。ただ、これからの残りの人生、愛する二人の姉妹と手を携えて、楽しく強く生きて行こうと思います。

いつもながらプライベートの内容で申し訳ありません。

◆実はこの裁判(調停)の話にには後日談があります。調停終了後に夫が資料を整理していると、古い日記に目が止りました。

そのなかに妻が言った「離婚3条件のメモ」が、日記文に混じって悪筆の名振書きで残っていたのです。書いた日付けも日記文で特定でき、明瞭でした。

このメモを夫は当事者個人の日記などは私物であり、当該裁判の証拠などにはならないだろうと安易に考えていたのです。いや、裁判という非日常に当面して、平静心を喪失し、その名振書き自体の存在を忘却していたのでした。すべては後の祭のようです。

先生の事務所に送ると、「今になって・・・」と言われて終わりでした。無理もないことです。ただ、もしこれが証拠として採用されたらと思うと、本件調停はどのような変転を見せるか、夫は想像の翼を広げるのでした。法律に詳しい方に、謎解きをお願いしたいと・・・。 妻は悪運の強い女性でした。夫はもはや過去のことは諦めています。ただ、皆さんには、夫の正しさを認めて欲しいという思いだけは心残りなのです。

父子と歩んだ人生

会報100号記念号発行真におめでとうございます。

100号と言いましても、地道に続けてきての到達ですから、担当されている方のご苦労は本当に大変だったなと改めて感動し感謝申し上げます。これからも引き続き会報の発行を続けていって欲しいと思います。

さて、私達の当NPOとのかかわりですが、いつだったかの初夏に小野さん宅の前を息子と通りかかりましたら、

「良かったら来ませんか」

と小野さんに声を掛けられました。

その時に手渡された資料を読みましたら、銀座の法律事務所でNPOの暑気払いがあると書いてありました。

常日頃、「行動して後悔するのは時が癒してくれるが行動せずに後悔するのは一生心に残る」と息子と二人だけの生活になってから考えるようになり、さりとて、息子を連れて行く所はないし、私的には法学部を出ていて、友人が働いていた四谷の法律事務所に何度かお邪魔したことがあり、暑気払いを開催する法律事務所にも非常に興味があり、ご迷惑を省みず参加させていただくことにしました。

場所が銀座なので霞ヶ関に勤務していた時には、職場の皆さんとよく銀座に昼ごはんを食べに行っていましたので、場所はあの辺りかなと想像はつきました。

でも実際、午後二時からの暑気払いの開催まで行き着けず銀座五丁目の三越裏辺りをうろちょろして、結局小野さんに電話をかけて助けてもらいました。

やっとのことで息子と行き着けましたら、初対面の人達が狭い会議室に既に集まっていて、「もしかしたら場違いのところに来てしまったかな」

と後悔しましたが、後の祭りもう参加するしかありませんでした。

しかし、息子は沢山の食事が並んでいてお菓子もいろんな物があって目移りしてすぐその場になじみました。自己紹介のときも、皆さんのことも知らないし、NPOのことも良く知らなかったのですが、席順で順々に自己紹介していくうちに多少なりとも場に打ち解ける事ができました。生来、出不肖であまり知らないところへは用心して行かなかったのですが、結果として思い切って息子と参加して良い経験ができたなと思いました。

初めて当NPOの会の印象ですが、「もし人を傷つけている人がいたら絶対にやめて欲しい。その人は一瞬で忘れるかもしれないがいじめられている側は一生忘れない」というお気持ちの方々の集まり(?)と感じました。また、「困難に挫ける人もいれば、困難で成長する人もいる。人生は挑戦を続け、最後の瞬間まで「希望」を捨てない。」人達の集まりであるのかもと思った次第です。

暑気払いに参加させていただいた後は、ちょくちょく会の行事に参加させていただきました。息子が逆流性食道炎で食べたものを嘔吐する癖があり、汚いことをするので皆さんにはご迷惑をおかけしたと思いますが、息子自体は、クリスマス会や新宿御苑の観桜会など、父子でしか外出できなかった以上に楽しく過ごせたと思っているのではないでしょうか。

ここ数年新型コロナ禍の影響で、外出自粛になり、マスクがかけられない息子は行動制限が係り、悶々とする毎日を送っておりましたが、去年の11月下旬にはとうとう痺れを切らして、朝一緒に散歩していた時に逃げ出して行方不明になってしまいました。結果として自由が丘のスーパーに入り込み、目黒区の碑文谷警察にお世話になることになってしまいました。また、息子本人も利用している福祉園バスの中でコロナ禍に罹患し、10日間ほど小平市の病院に隔離されてしまいました。

と、コロナ禍騒動でもいろいろとやらかしている息子ですが、最近29歳にして、少し言葉が出てくるようになりました。もしかしたら、人生の半分を言葉無に過ごしてしまい、残りの人生も「静かなる男」で終わってしまうのかなと息子に憐憫の情を抱いていたのですが、微かに希望がわいてきました。この機を逃して成るものかと、利用しているfacebookやabemablogで、知っている言語聴覚士の情報を問い合わせまして、中川信子先生に行き着きました。先生から早々に連絡があり近くに住んでいる言語聴覚士さんを紹介いただくことができました。諦めの悪い小生ですが、常に夢と希望を持ってこれからも息子と一緒に歩んで行けたら幸甚だなと思っています。

会報100号記念号発行に寄せまして

この度は、NPO法人障がい児・者人権ネットワークの会報100号の記念となりますことを、心からお慶び申し上げます。

時代背景が変わり、ネットワークに関わられた会員の方々が代わられても、 会が続き、 会報が100号になりましたことは、本当に素晴らしいことだと思っております。 この会があることで、悩みや苦しみがその後の相談につながり良い結果になられた方々がたくさんおられたかと思います。

就業や会社、 施設などで、差別を無くすための施策が声高に叫ばれても、 未だにその差別に苦しむ声を救い上げる場所は少なく、人権ネットワークがこれからもその大きな役割を果たしてくれる会であると思っております。

理事の皆様始め事務局の小野様の益々のご活躍とご健勝を心よりお祈りし、更に会報が150号、200号と続くことを願ってやみません。

100号おめでとうございます。

読者の皆様そして人権ネットの皆様、何時も会報をお送りいただきありがとうございます。今回で100号になるとのことで、おめでとうございます。

ここまでの道のりは私が想像する以上のご苦労があったと思います。何もお役に立ててはおりませんが心からお祝い申し上げます。

私はというと長期間読み逃げではありましたが、読み始めのころは「へえ、そんな法改正があったのかあ」と学ばせていただいたり、情報をいただいたりすることがメインでした。しかし年齢が上がり、より多くの人や物、新しい考え方や、様々な生き方に触れる中で、会報の中身を自分の問題に引き付け、考えることができるようになり、視野が広がっているような気がします。

また私にとって一見難解であるという誤解や、敷居が高いというイメージを持ちがちな法律に興味が持てるようになったのは人権ネットさまの出してくださる情報のおかげだと感謝しております。

特に福祉関係の法律だけではなく私たちの生活に関わる民法改正を知らせていただけたときは受験生だった私にはありがたかったです。もちろん色々な立場の会員の皆様の記事も、共感したり、感動したり、驚いたりした物も数多くありますし、勇気付けられたこともありました。

今は事務所も移転されたと聞いています。色々な事情で縮小せざる負えない部分もあるのかもしれませんが引き続き会報を読ませていただけるとありがたく思います。

これからもよろしくお願い申し上げます。

【情報格差】

近頃、障害者内での情報格差に直面しているのでございます。

話の発端はMLでした。 

ある人がネットニュースを見て、それをコピーしてMLに貼り付けて公開しておりました。もちろん、親切心からであります。

日々のニュースに触れる機会の少ない私にはこれがとても新鮮だったのです。PCを開いては真っ先にニュースを聞くのを日課とするようになりました。PC上のニュースの仕組みは、私なりに解説すると、便箋に書き記した文があって、その便箋を封筒に封入して、表に宛名と住所を書き込む…の動作に酷似しているように思えます。
つまり、便箋に記した文字は、PC画面では文字データであって、封筒の表書きとなる宛名・住所がURLに該当するのかもしれません。前述の文字データの他に音声データもあれば、画像データもあるのですが、ここでは単にデータとしましょう。

論争というほどの激しいやりとりではなかったのですが、ここには微妙な立場の違いがのぞかせているのであります。「URLを記すだけにとどめて投稿せよ」と指摘する人と、「そのURLが開けない人がいるんだからデータを貼り付けてもいいんじゃないの」と意に介さない人とに割れました。URLに止めよと力説する人は、多くが弱視の方でして、新築中の公共物の進行状況を報告しするし、食べ物の色も記すし、何よりも単独歩行の様子も投稿してくれます。

つまり、晴眼者と変わらぬPC操作ができるのでしょう。(もちろん、例外もありましょう)

片や、私はPC画面が全く認識できません。音声に頼るしかありません。文字データを貼り付けてもらうと非情に助かるのです。先日まで、「四角い仁鶴がまぁ~るくおさめまっせ~」で始まる法律相談の番組があったけど、肝心の仁鶴師匠が亡くなられてしもうて、URL派が俄然勢いづいて参りました。まるで芥川龍之介の蜘蛛の糸を彷彿させます。

あ、そうそう!

以前、別のMLでこんなことがありましたよ。

「皆さんは仕事で忙しいだろうから、このワシがいい記事だけをまとめてMLに貼り付けておくよ。なあに、新聞社には、ワシから了解を得ておくよ」

このような前置きを意味する投稿があってから、連日のように、選び抜かれた、いい内容の記事がMLに貼り付けられるようになりました。著作権問題があるからURLだけにとどめておけと大上段に振りかざすのでなく、記事発信元に、前もって事情を説明して承諾を得ておけばよいのです。

しかし、こんないい例があるにもかからわらず、耳を傾けようとはしないでしょうねえ。加齢に伴う頑固さが意固地になるのでありましょうぞ。私だって、説明するのが面倒だししんどくなってきたのです。ワシも、歳とったわい!

お願い

私の人生で一番勉強になったのは、小3の敗戦前後の時です。日本人のデタラメさがよーくわかりました。

自分を振り返るのは見事に省略して、自分の周囲を観察し、他人の動きに反応して、強い者、大勢のカタマリにべったりくっついて安心感を得る。だから当然弱い者、少数者は排除する、排除してなお安心して痛めつける人種だと77年間観察し続けた歴史があり、結果でした。

日本はまともな方向に行くことはない国です。そんな中に、全く大勢と価値観の違う真反対の人権ネットが発足し、永年の友人の誘いで、余り知識もなかったのに、フラフラと参加してみて、私にとっては貴重な、呼吸できる場所だと、近年になればなるほど痛感して、会員の皆さまに感謝の念で一杯です。

強い連中の人混みの中に混じったら、弱い人達にはさぞかし過酷だと思います。そのときは人中で手伝ってやって欲しいことを(さぞかしムダで、腹立たしいかもしれないけれど)教えてやってください。

まるで通じない人間の方が多いかもしれないけれど、実は人と交わる術がわからないので、気後れしているだけかもしれないのです。私がそうだから・・・・。その事が飲みこめたら、その人間にとって知識になり、自信がつき、人間との広がりができますから。

まるで通じない人間の方が多いかもしれないけれど、そんなときは、それを人間と思わず、違った生物と割り切ってください。

上から目線ではなく、半製品の人間に教育するつもりで。弱い立場とか、少数派でも気がついた者が仕方なく人間らしく振る舞う以外にないので。

会報100号に寄せて

私が障害児者人権ネットワークと出会ったきっかけは、一枚の新聞記事にある広告欄に人権弁護士(後の障害者人権弁護団)主催「米国アメリカ人法(障害者差別禁止法)」発表会があるという記事で、東京で集会を催す内容であった。

この法律は、障害者に対して差別をしてはならない、違反すれば訴える(罰金)権利がある。
私は今まで、障害当事者(脳性小児マヒ)でありながら今まで「人権」という二文字は考えたことはなかった。私はその言葉にひかれ参加してみようと思ったのが、障害児・者人権ネットワーク(当時まだなかった)に入る最初のきっかけでした。それまでは、障害者は可哀相な存在で、庇護のもとでないと生きられないと思っていたのが、参加してみて、障害者は可哀相な存在ではなく人間として生きる場の提供がなされていない社会側の問題であると聞き、目からうろこみたいな思いで聞いていた。

それまでの教育は、障害者は頑張って頑張って努力し、訓練に励み健常者のようになれるよう頑張る。冷静に考えればそんなことはありえないのであるが。頑張って頑張って障害が治るものでもなく、むしろ今ある障害を受け入れ、障害があっても、障害と感じないような配慮のある社会が障害をなくすこということが、当時の私にはわからなかった。

その後、人権弁護団による米国視察研修が始まり、私も参加した。米国に行き寝たきりの重度障害の人が、入所している施設から退所し、地域で生活をするという話を聞き、おどろきとショックを受けた。一般的には、入所施設の生活は、職員が介護し、衣・食・住を提供する。まるで籠の中の鳥のようなものだ。退所するにあたり職員は無理だと言い、反対したそうだ。その重度の障害の方は、自身でケア(介護)をしてくれるボランティアをさがし、アパートを借り、自由に表に出られる生活を送っていた。実際その方と会い話を聞き、生活場面も見せていただいた。勿論費用の件、アメリカ人法にのっとって米国政府が支払う。なぜかといえば、人それぞれに人権があり生きる権利がある。もう、まさに目からうろこである。だから公共交通機関鉄道、バス、お店等も自由に乗れ、店にも入れる。日本では考えられないことであった。米国の障害者はのびのびと生き生き暮らしており、街の中でも多くの障害者が見受けられた。夜、街の中で車椅子の障害者がこれから店に飲みに行くと出会った。日本では考えられない光景であった。

米国の障害者はのびのび生き生きと暮らしているのに、なぜ日本ではそれが出来ないのか?と不思議がられた。勿論昔のアメリカでも今の日本の考え方のような時代もあった。

しかし我々はこの自由のアメリカ社会が、障害者の自由がないことはおかしいと何度も政府、世論(ロビー活動)に訴え続け、運動を行い、アメリカ人法(当時ブッシュ大統領)障害者差別禁止法の制定への法律を勝ち取った。そういう歴史があるからだ。一番の負けは、あきらめるということだ。

私は日本に戻り、米国で出来た事が日本でもやれないことはないと確信した。
なぜかといえば、将来日本は高齢化社会という問題に直面する。
その時、段差があってトイレに入れない、公共の場に手すりがない、スロープ・エレベーターもみんなが必要になってくる。この問題は障害者だけの問題ではなく社会全体の問題になってくると思った。それを解決するには、法律の制定しかないということ。色々な地域で講演会や学習会等、人権について人々の意識変革を行った。それ以外に共生社会の実現につながる方法がないと思った。
しかし当時はバブル社会一色で、国も地方公共団体も障害者に権利を与えることは逆に差別になると消極的な態度であった。
障害者は国や社会が守り限られた社会(施設)で過ごすことが安全であり人権が守られるという発想である。
1981年国際障害者年をきっかけに当事者の声も聞きながら国は差別禁止法ではなく障害者差別解消法を制定し、社会のバリアフリー化を目指している。
日本においても障害当事者みずから主体的な生きる権利の保障を目指して進んでいきたい。

塚本裕子さんの死を悼む

塚本裕子さんは長い間ずっと人権ネットワークの会員でした。塚本さんは障がい者施設の職員さんでした。人権ネットワークの発足当時はやっと障がい者虐待がクローズアップされてきたころで、大石先生のキャッチコピーに「施設は障がい者虐待のデパート」とかいうのがあったくらいです。

そして、施設の職員であった塚本さんは、自身の障がい者施設の有り様に疑問を呈し、弁護士さんも参画する障害者の人権確立のための団体の設立に期待し、当初から加わって下さいました。

塚本さんは当事者の方々を大切にする職員さんでした。視点が当事者サイドなので、職員でありながら施設側とぶつかることもあり、施設内で陰湿ないじめにあったことも聞いていました。

人権ネットワークが発足後27年になるとしたら、少しずつでも「人権」というものが尊重されるようになってきて、塚本さんの心配する状況が改善されてきたのか、働き盛りの40代、50代の頃は大きな学習会などへの参加の他はあまり直接的な関わりはされていなかったと思います。

ここ数年、思い出したように、よく月例会に参加してくださっていました。正論をびしっと発言されました。癌宣告され、それでも知的障害の方たちの同行援護サービスを続け、そのお仕事が終わったあと月例会に参加されていました。長期に亘る闘病生活ですが、仕事はずっと続けられていました。「利用者さんが可愛んだよね」とよく仰っていました。

病気を抱えながらどうしてこんなに頑張れるんだろう、痛いはず、辛いはず、なのに、弱音は決して吐きません。だから、本当は辛い塚本さんのサポートが全くできなかった、悔やまれてなりません。

私にいただいた入院して12日目の2月1日のメールには、
あまりにひどい状況で、セカンドオピニオンを聞くために癌研にいくと、先生が立っているのも大変な私に、「こんな状態でよくがんばりましたね」と言って、予定よりかなり長時間の説明をしてくださり、感謝。
這うように自宅に帰りました。
そして翌日、杏林病院の受診日でした。病院に着くなり、辛くて立っていることもできないし、あまりの辛さに泣き出してしまいました。先生が驚いてすぐに診察すると、腹水が多量にたまり、呼吸もつらい状況で、緊急入院になりました。

まだまだお伝えしきれないことばかりですが、病院はそろそろ消灯の時間です。
「ただひたすら ひまであります」
「朝はなぜ?開けると表現するのでしょう?フッと不思議に思います」そして、腹水のこと・・・お腹は腹水でパンパンで、妊娠中のよう(妊娠したことはないけれど)、腹水を抜いたあともぽたぽた腹水が流れ出て、足元が湖のようになった、
「これで体重少しは減ったかな」
「なかなか退院の話はでません」
2月2日のこのメールを最後に音信不通になりました。その後はメールを送っても返信はありませんでした。

覚悟されていたのでしょう。12月末と1月初めにかけて、2年ぶり施設入所のお母様に会いに神戸までいかれています。話しているうち認知症のお母様からも言葉が返ってきた、手に触れることもでき、涙、涙の対面だったと。

塚本さんのお母様に後見人の弁護士さんがつかれていて、その弁護士さんから「裕子さんは3月2日にお亡くなりになりました」と連絡いただきました。2月3日からの1ヶ月間を塚本さんがどのように過ごされていたのかは知る由もありません。弁護士さんからは、人権ネットワークの会報が転送されてきたので、会費の未納はありませんか、との問い合わせのための連絡でした。優しい弁護士さんで、ご親族になにかお伝えすることはありますか、と聞いてくださいました。

毎月の月例会のあと、女子会と称して、食事をしたり、お茶したり、京橋から有楽町まで歩いて帰る途中ずっとおしゃべりしました。人権ネットを少しは居心地の良い場所と感じてくださったのでしょうか。日比谷公園散策にも参加してくださり、福島の美味しいものをいただきました。今年1月の月例会にも出席して下さいました。この頃はすでにつらい状態だったのだと思います。

個人情報なので病院への問い合わせ電話には答えてくれないだろう、コロナなので、面会はできないだろう、と諦めるのが早すぎました。杏林病院に連絡してみるべきでした。すでに連絡できない状況だったのかもしれないのに、なにかできることがあれば連絡が来るはずと勝手に思ったのがいけませんでした。悔やんでも悔みきれません。

塚本さん、連絡がとれなくなってからの1ヶ月をどのように過ごされたのですか。お手伝いすることも、寄り添うことも何もできず、本当にごめんなさい。

最期までお付き合いいただきありがとうございました。
裕子さん、今はどこにいらっしゃいますか。
どうぞ安らかにお眠りください。

(事務局)

会報101号に向けて

私が貴会あるいは会報のことをどうやって知ったのか思い出せません。
しかし、第1号が届いたのが、1995年9月で、その前年の11月と12月に準備号が送られてきた記録がありました。 既に当時清水先生が中心だったか記憶があいまいですが、その後の清水先生の奮闘ぶりは仙台にいても紙面からだけでも、強く伝わってきました。

私が児童虐待について調べ始めたのは、1992年頃で国会図書館でも資料が少な く、人権・権利擁護虐待問題への国民の関心度は、今とは雲泥の差がありました。そのような状況下で「人権」を標ぼうされた団体は新鮮だったのかも知れません。 以来、27年間、100号まで発行を継続されてきたことは、本当にすごいことだと思います。継続は力なりと言われますが、それを体現されてきたことに、改めて敬意を 表します。

この間、社会情勢は大きく変化し、やまゆり園や優生保護法のみならず、虐待・人権侵害が後を絶たず、年々深刻にさえなっているように思います。
虐待防止法や差別解消法など、法制度は徐々に整いつつあります。
「人権」への関心は高まってもいると思いますが、 永遠テーマであるだけに、諦めや感度の低下もあり得ます。 今後も永遠に継続していく必要を強く感じます。

私は「障害」は「障碍」と書き換え、 漢字表記するのが現状ではベターだと思っています。 基本法改正後、 定義が変わりました。 そのことこそ伝えるべきで、そのためには「障碍」 と表記することが良いと思っているからです。

それひとつをとっても、 「障碍」についての認識に相違があるかも知れませんが、 議論を繰り返し、考える契機になることは有意義だと思います。
「人権」は「障碍」のある人だけの問題ではないことは、多くの人々が知っていま す。 世界中に広がる分析、差別、殺戮そして国家主導で行われる最大の人権侵害であ 犯罪でもある戦争は、ありえない構図の中で今も起こっています。
それでも考えること、諦めず語ることが、今こそ大切かと思います。 それは貴会が27年間培われてきた魂だと信じます。
これからも決して諦めず語り続けて下さい。
私もそうするつもりです。
これまでのご苦労に感謝と敬意を表し、 そして会報101号からの発刊継続にこころ からご期待を申し上げます。

会報100号記念号発行に寄せて

会報 100 号発行、おめでとうございます。また、いつも大変お世話に なっております。

私が貴団体を存じ上げるきっかけになりましたのは、平成 25 年の被後見人の選挙権に関する議案です。 私は普段は、片田舎で高齢者福祉 に携わるソーシャルワーカーを務めさせていただいているのですが、 資格の勉強などをしておりました際に、その時点で被後見人の方は選挙権すらなかったのか、ということを初めて知り、とても驚きまして、調べて行くうちに貴団体にたどり着きました。 公職選挙法が改正されて、 他人事ながら安心したことを覚えております。

なかなか総会や集まりに参加できず心苦しいですが、お送りいただ いております会報誌はとても励みになりますし、勉強させていただい ております。私も職場や様々な団体の広報誌に携わらせていただいた ことがございますが、定期的に発行することはほんとうに大変だと思 います。 そこを承知で申し上げますが、 これからも楽しみにしておりま す。また、 200 号 500 号と続いていただけますよう陰ながら応援して おります。 今後とも宜しくお願いいたします。

乱筆乱文、また短くて申し訳ありません。失礼いたしました。

駅エレベーター(交通行動に参加して!)

現在は当たり前のように各所で利用可能ですが、駅エレベーター設置までの背景にどのようなことが行われていたか?利用者のどのくらいの人が知っているのだろうか?と考えることがあります。当時企業勤務していた時に八王子自立支援センターの職員Kさんから国際協力事業団<機構>(JICA)による研修のための留学生(障碍者リーダーコース)の企業訪問の依頼を受け会議室で対談形式で通訳をはさみ行われた。

その流れで駅エレベーター要求のための”交通行動”に参加する。
集合場所の日比谷公園に着いてみると各所からの障碍者団体が結集していた。一斉に霞ヶ関へと歩き出しいくつかの駅へ分散。移動困難な丸ノ内線に向かう。

電動車イスなどの車イスユーザー1名に対して駅職員数名で持ち上げ階段移動する。駅職員は腰痛防止サポーター着用、一斉に車イスユーザーの連続階段移動に過度の労働から駅職員側から労働組合が動き国への働きかけへと持っていくようだ。

参議院議員も車イス体験をしてもらい、車イスユーザーのどれくらい不便で怖い思いをしているか?体感してもらっていたようだ。

丸ノ内線乗車して新宿に出て駅エレベーター要求のビラを街頭で配る。<自分自身が車イスユーザーになり駅エレベーターの異動手段は必要不可欠と実感している>

当初身障者専用ということだったが当時の代表が必要な人々と身障者、高齢者、ベビーカー、キャリー移動可能になった。
誰もが住みよい共生社会の実現への大きなステップになったと感じています。

NPO法人

NPO法人障害児・者人権ネットワーク 会報 100 号 おめでとうございます。

私は幽霊会員に近いですが、活動を地道に続けること中心メンバーの皆様に心より敬服致します。
活動に貢献できていませんが、団体が続いていること自体に安堵します。
先日押入れを片付けていたら、NPO化前の 1994 年頃の任意団体時代の創刊号にメッセージを寄せたものが見つかった記憶で、それをコピーしようと思ったのですが、またしまったら見つけられなくなりました。
私は 1995 年 4 月弁護士登録のため、1993 年~1995 年 3 月まで司法修習生でした。
手元資料から設立当時を振り返ると、1993 年 9 月 19 日、鉄道弘済会館で(夏に結成された)全国障害問題弁護団とともに「障害児者の人権擁護ネットワーク9.19 集会」が開かれ、障害児・者人権擁護ネットワークを作ることが決議されました。
1994 年 4 月 23 日・24 日弁護団主催の「春の権利擁護合宿」が開かれ、気運は盛り上がり、1994 年 5 月 25 日に午後 6 時、飯田橋のセントラルプラザで拡大準備会が開かれ、70 名ほどが集まり、清水建夫弁護士を中心に「私たちのとりきめ」が確認されています。私も修習生として参加しました。
この会の意義の一つは、弁護士という専門家と協力しながら、市民の視点・感覚を大切にすることだと思います。
私も 27 年半、弁護士として障害者の人権問題を裁判・交渉等で闘って来ましたが、弁護士ももちろん、裁判官・警察官・公務員等の専門家の無理解に虚しい思いにさせられることは未だに変わりません。
これからも市民目線を大切に、活動が続くことを願っています。


夫と共に、立ち上げの頃の集まりに出向いたとき、私は区立の福祉作業所の職員でしたので、行政側の立場での参加なんて勇気があるね〜と言われました(笑)
その後、自閉症の次男を授かり仕事を辞め、子育て支援のNPO法人を立ち上げることになるなど、立場は色々変わりましたが、人権ネットのように、ブレることなく継続することの大切さが身にしみます。こちらも役立たずではありますが、陰ながら応援しています。
100 号、本当におめでとうございます!

会報100号記念号の発刊に際して

私は、人権ネットにいつ頃参加したか調べる時間もなかったので、私のPCの関係ホルダーを覗いてみると2017年に創立15周年を記念するパーティーを開催していることがわかりました。ということは今年で20周年になるのかもしれない。

それはそれとして、途中ネットワークに参加したので最初のころのことはわかりませんが、参加したころはネットワークの大きなテーマは障害者施設の虐待問題と障害児の全入教育だったと思います。今でも懐かしいNさんとかTさんが活躍されていて感銘を受けたものです。そうした流れで施設の倫理綱領が増えていき、表面上、虐待問題は見えなくなったものの、折に触れ各地で浮かび上がっています。また、教育はインクルージョンという言葉だけは普及したものの、残念ながら特別支援教育のかたちで子どもの時から差別がされています。

施設での虐待問題や障害者の差別問題は、もともとの原因をたどれば、教育の差別から起こっているといっても言い過ぎではないと思います。障害者を怖がったり、何か支援してあげようにもどうしたらわからないからできないというのは、みな子どもの教育の時点で始まった問題なのです。

障害者の権利条約やこどもの権利条約には、差別を受けることなく地域での教育を保障すべきことが述べられているはずですが、分離されて育つ子どもたちにはお互いに理解しあうすべもありません。理解があれば、どんな状況の中でも助け合い、社会からの援助に対して文句もあまり出ないでしょう。

振り返ってみて、障害者問題は子どもの教育の場から始まるとするなら、人権ネットの目指す目標は、差別なき教育が基本の基本のような気がします。

また教育のなかでは競争や効率ばかりを目指していればいいというものでもなかろうと思います。日本中ストレスいっぱいの生活で社会がぎすぎすしているのを見ればこれでよいはずはありません。街を歩く大人も子どもも微笑みを絶やさない社会であってほしいものです。

さて、理想の社会を目指すとして現在の世界の状況はどうでしょうか。毎日、ウクライナの戦況や食料不足、物価の値上がり、気候変動に伴う災害などなどとてもとても人類が理性をもってこの状況に立派に対処できそうにありません。

世界史はいろいろな事件を通じて人類の教科書を備えていますが、残念ながら人類は教訓を生かすほど成熟した動物ではないようです。理想を持てばその目標に突進して犠牲を顧みないで結果は思ったほど素晴らしい世界になったという評価を与えられる例はまれです。

そうしてみると日々進歩する世界というような幻想は持ちえませんが、悲観することばかりでもないのが面白いところです。

私たちの周りにはよく見ていれば素晴らしい人がたくさんいます。モノやサービスを作り出し生活を豊かにする人、特別に才能はなくても周りの人を楽しく幸せにする人、黙々と生きているだけの人、苦しいこと・悲しいことに出会ってもそこに笑いを見つける人、こんな人たちと同時代に生きていられることを喜べる人、いろいろ問題はありながらじっと味合うとこの世は本当に暖かく美しく楽しいです。

でもひとたびテレビや新聞を見ると世の中はとんでもないことだらけです。なのにこの世は素晴らしいなどとのんきなことを言ってはいられないと誰でも思うでしょう。そのとおりです。ウクライナの状況を見ていると何の罪もない人たちが平和な生活を奪われて他国や見知らぬ場所に避難しています。普通の人でも大変なのに、昔のことを思うと、障害者は一番先に犠牲にされるだろうと思います。戦争という状況では、支援を受ける人は大人も子どもも足手まといと扱われるでしょう。ドイツで安楽死させられた障害者のことはどなたもご存じのとおりです。高齢者の方でも同じことです。

戦争になったら犠牲になるのは、いつでも庶民であり社会的弱者です。

そんなことはまっぴら御免です。私たち一人一人はまるで無力な市民ですが、その意思を少しは表明できるありがたい制度を持っています。いうまでもなくそれは選挙です。基本の基本の教育の改革は、選挙により実現するほかありません。また、弱者を犠牲にする戦争に向かわないためにも弱者は1票を投ずべきです。障害児者人権ネットワークは選挙の投票率アップのために行動しましょう。

町会の仕事を引き受けて

息子和幸が生まれ育った地域にお礼の気持ちもあって、町会の仕事を6年前から引き受けました。

仕事は色々有るのですが、

26班からなる班のまとめ役です。班長に町会費、赤十字、歳末助け合いの募金等を集めてもらい 各々の機関に期日までに収める事。

町会報 を各家庭分、区役所、消防署、警察、保健所、学校、社会福祉協議会、等々。

250世帯をさらに26班に分けて、配ります。 印刷物はかなりの重量になります。

坂が多い町で自転車でも苦戦します。左手を骨折時は自転車にも乗れず、和幸が大きな袋を担いで、呉れました。

子ども夏祭り大会では、模擬店の仕事で、私は主に焼きそば担当で忙しいのと熱いので盆踊りを見物する暇もなく、時折、隣の金魚すくいの子供たちの様子を見るくらいでした。

パトロールもあります。各学期毎に2日づつ 通学路を中心に見回ります。朝早く子供たちが元気に挨拶して登校する場面に立ち会えて、こちらも嬉しくなります。

敬老の日はお茶を届けます。

9月はお祭りで子ども達の山車について一緒に町内を回ります。暑い日が多かったです。コロナで2年ほど開催できませんでしたが、今年は縮小して催すようです。

近年は一人暮らしの方が施設に行かれ、永らく空き家にされている家が壊され更地になったり、又広いお庭の家がマンションになり、庭が消えていきます。そして町会加入者も少しずつ減ってしまっています。

地域の安心安全の為には、挨拶を交わせる方が多さんいる街が良いなあと考えてます。

大変なことも多々ありますが、近くに住んでいても、話した事のない方と一緒に行動出来ますし思わぬ発見もありました。 年齢を重ね物理的に、きつい時もありますが、もう暫らく、続けて見ようと思ってます。 

「障害当事者」のひとりとして

現在、私は「ヤマトグループのIT企業」に勤めていて、「勤続20年」 になります。 この会社は、「障害のある人の雇用」を積極的に進めて いるそうです。 私は現在、「契約社員」として働いてきました。 入社から10年以上 「有期雇用」 といった 「不安定な身分」でしたが、数年前から、「無期雇用契約社員」に切り替えりました(ただし、「無期雇用」 と「正社員」は、別の身分だそうです)。 できたら 「正社員」 になりたいと思っていますが、現実には 「障害があるゆえに、なかなか難しい」 と言われています。

数年前までは、 「オフィス勤務」 でしたが、「コロナ感染で、 毎日の通勤が困難となったため、現在「完全な在宅勤務」で働いています。 会社に通勤しているときと比べ、「話のできる人」が大幅に減り、「慢性的な運動不足」も気になっています。そのため、私は仕事の合間に 「ストレッチ」 や 「スクワット」などをやることもあります。「コロナ」とは別に、最近はほぼ毎日のように「ウクライナ戦争」 も報道されるようになりました。 このため、「急な物価高」にも悩まされています。この戦争を口実にして 「日本国憲法9条の改憲」 に 走る政治家もいるようです。 このままでは、私たち一般庶民はますます生きにくくなっていくでしょう。そのため、あと2か月後に実施される「参議院選挙」では、「改憲発議」も問題になってくるでしょう。
私のような「障害(障がい・障ガイ)当事者」は、「コロナ」や「ウクライナ戦争」で、ますます困難になっていくでしょう。「前途多難」または「一寸先は闇」とも言われていますが、「障害(障がい・障ガイ)当事者」のような人たちが、「安心して生活できる社会」をみんなで築いていきたいと考えています。

朝の「ラジオ体操」

私は、健康を兼ねて地元のラジオ体操に20年以上参加しております。参加の動機は、隣近所の人たちと挨拶ができればと思い、もともと体を動かすことが好きだったので、「毎朝のラジオ体操」が一番と思い、参加するようになりました。

参加者の話によると、私の父も前は参加していたようです。参加しはじめの頃は、仕事をしていたので毎日参加とはいかず、土日を中心に参加していました。ラジオ体操会場は、私の母校である小学校の校庭でしたので、ほとんどの参加者は隣近所の人たちでした。

参加者の中には、地元の高齢者クラブの人たちがおり、「輪なげ」「カラオケ」「歩こう会」といったクラブに誘われるようになりました。参加者と親しく話すようになりました。そして、みなさんとは①家庭のことは、話題としない②政治の話もしないといった事が解るようになりました。

しかし、20年以上参加していると、朝のラジオ体操だけから街を歩いていて話しかけられたりするようになり、そのうち身内の話や世の中の話もできるようになり、お互いの関係が親密になりました。そのうち障害者のことも話題として、話し合えるようになりました。

参加者の多くは、高齢者が多いので、途中で参加できなくなったり、いろいろなことが起きます。

現在、母校は改築中であり、ラジオ体操の会場が少し遠いところになり、朝早く起きて参加しております。参加者のメンバーも今までと違ったメンバーも増えています。また、毎年夏休みには子供たちが多く参加します。毎年1年ぶりで会うと、その成長ぶりには驚かされます。このような中で、私の参加しているグループの会報なども読んでもらう方も増えました。

私が隣近所や町会のみなさんと親しくなれたのも、毎朝のラジオ体操が取り持っていると思います。

みなさまも、体と時間の余裕のある方は、ラジオ体操に参加してみるのは、いかがですか?何か新しい発見があると思います。

100号おめでとうございます

100号記念にふさわしい何か良い話を…と思ったのですが見つからず、みな様を元気づける内容となりそうにないのですが、私の中で気になっていた事を思い出したのでそれについて書くことにしました。

あれは今年の3月中旬の頃、私共夫婦は自転車で隣町だけどめったに行かない所を走っていました。途中大きな交差点で信号待ちをしていた時、「えっ…」と驚くような垂れ幕を目にしました。それは大きな病院の前に白いテントがあり、その近くに掲げられていました。「PCR検査無料 各日先着100名様 クオカード500円プレゼント」そんな内容だったと思います。夫は「ツイッターに載せようかな…」と面白がりましたが、変なのに粘着されても嫌なので止めることにしました。それにしてもこんな所が全国に何ヶ所あるのでしょうか。

主要先進国ではとっくにマスクをはずしているというのに登下校時のマスク姿の小学生を見ると暗い気持ちになってしまいます。武漢コロナもそろそろ下火になってきたからでしょうか。今度はサル痘が流行するとネットで話題になっています。ポストにまたはスイッチをONにすると入ってくる情報だけでは足りないと感じるこの頃です。

最近手書きすることに億劫になってきて漢字を忘れたしまった老体にムチ打って今日は自筆とさせていただきました。汚く読みづらいことをお許し下さいませ。

最後に今回の100号記念号を迎える事が出来たのはひとえに小野様の献身的なサポートあってのことと感じています。

小野様、清水先生、ネットワークの皆様の御健康を願ってペンを置きたいと思います。

退職にむけて

今年の誕生日を迎え、長年勤めていた勤務先を退社することにしました。
現在、仕事の引継をしながら、退職日までの残りの日々を過ごしております。
現場の営業部店勤務が約30年、本社勤務が約11年、転勤の回数は約15回。隔地転勤も多く、仕事の内容も含めて様々なことを経験しました。
貴重なことも体験し、いろいろな方と接し、仕事を通じていろいろな意味で視野を広げることができたと思っております。

60歳で定年を迎え契約社員として毎年契約を更新してきましたが、年齢による気力体力の減退もさることながら、夫婦の高齢な親のこと、そして何よりも妻が年で、家事の負担を分担することを考えないといけないと考えるようになりました。
昨今のコロナや世界情勢をふまえ、夫婦や家族と過ごす時間を大切にしないといけないかなという思いに浸りながら、契約更新の時期に退職することの可否について妻と相談したところ、二つ返事で「早く自分の部下になれ」という言葉が返ってきました。
巷で伝わる熟年離婚という事態は予測していませんでしたが、今後家にずっと自分が居るということに妻がうっとおしいと考えるのではと少し危惧していましたが、とりあえずセーフ。

いつまで続くかわかりませんが、心機一転、神妙に妻をたてて家事を分担していこうと思います。

ありがとう

「井の中の蛙 大海を知らず」と言われるような職業に就いていたので、世の中のことを何も知らない私でしたが、「人権ネットワーク」に入れてもらい、心の目が大きく開きました。

この会の初めの頃、飯田橋の集会や北区のスポーツセンターの合宿にも行きました。あの頃はまだ目が見えていたので、一人で参加できていました。網膜色素変性症という目の病気のために次第に視力が衰え、ついには見えなくなって、同行援護なしでの移動ができなくなりました。

当初、弁護士と市民は車の両輪で、ともに協力し合いながら活動していくというような議論、名称に権利擁護という「擁護」をいれるかどうかについても白熱した議論が行われました。

私と同じように、会の設立当初からネットワークに参加し、今も会員でいる方が何人いるのだろうと思います。

この会に入会させてもらい、多くのことを体験し、いろいろな障害を持つ人がいて、みなそれぞれ真剣に生きようとしていることを学びました。あの頃は特に、障害のある人もない人も真剣でした。そこに関わることができ、私の心の目が大きく開きました。そして、私の人生を大きく膨らませてくれました。

血液製剤により障害を負ってしまった方、介護ヘルパーが世田谷のお年寄りの財産を全部使い込んでしまった裁判、障害のある小学生のお子さんが体育館に閉じ込められそこから出ようとして怪我を負ってしまった事件など裁判の傍聴にもずいぶん行きました。

性同一性障害の当事者の方からどのような障害なのかを講演していただき、ひざを交えて多方面から生きづらさを学び、私なりに理解し、そういう人たちが当然に市民権を獲得し、生きていけるよう、私もできることで行動しなければいけないと痛感しました。

暑気払い、クリスマス会、旅行、学習会、講演会などなどたくさんのイベントに参加させていただき、楽しみ、学び、視野を広げてきました。私の視力は失せてしまいましたが、それに代わるように、心の目は大きく開かれました。

コロナでなかなか動きが鈍くなっています。それに加え、同行援護のヘルパー派遣にも時間的な制約があることから、行きたいところに,行きたいようにいくことは難しく、人権ネットワークの集まりにもすべて参加は難しいのですが、初心に帰り、参加を心がけたいと思っています。コロナが収束するのを祈るばかりです。

私にできることは何だろう、と考え、命の電話の相談員になっています。生きづらさを感じている人がたくさんいることに心が痛みます。

相手の気持ちを大切にする、このネットワークが好きです。この会にずっと関わっていたいと思います。

これからもよろしくお願いいたします。

「A型事業所の裁判のその後と現在について」

会報100号記念号ということでお祝い申し上げます。今回はA型事業所の裁判の経緯などについて、思いつくまま書かせて頂きたいと思います。

私は、一般企業で働く期間が長かったのですが、体調を崩した事で合理的配慮を求めて働く為に障害者手帳を取得し、一般企業への再就職の準備期間として、就労継続支援A型事業所で働く事を選びました。

A型で働いていた期間は1年半でした。

A型事業所で働く障害者は、知的、身体、精神、と皆さんそれぞれ障壁となっている状況や状態が異なります。その場の動作や業務作業に得手不得手がありました。作業はそれぞれ分かれていましたが、しかし、人間ならば得意不得意は誰にでもあることです。一般企業での業務が分担性で行われている事を考えれば、それは同じです。働く側同士は一般的な職場と変わりませんでした。

しかし、一般企業と大きく違っていたのは、管理する職員の存在です。そして、私が働いていたA型事業所では、障害者は自分達よりも劣る、人間ではなく野菜、面倒をみてやってる、と、いう暴言や身体的な暴力等がありました。(詳細は省きます)

虐待を躾だとか、体罰を指導だとか、言う加害者の言葉を皆さんも聴いたことがあると思います。

仕事には、良心的な親切心だけでなく、高度な倫理観が求められる仕事もあります。私が最初に頭に浮かぶのは医療倫理です。そして、使用者と労働者のような立場の強弱や、当時者と指導助言する支援者のような場合などは、尚更、慎重になる事が必要である事を私は学んできました。様々な職種があり一括りにはすることは出来ませんが、福祉的支援等の基本は奉仕であり、支配であってはならない、そう思います。

しかし、仕事で、社会的弱者を相手にしているということで、能力や判断力や知識や経験が自分の方が優れているという意識になり、自分がまるで社会的な強者になったような過信をするのかも知れません。勿論、すべての人がそうだとは限りませんが、個々の過信が差別的な思考や優劣思想に繋がっているようにも思います。その過信が支配の始まりでもあると思います。奢りは職務に就く者としての資質や適性の問題だと思います。それらの身勝手な選任意識が例え、個々の未成熟さがもたらしたものだったとしても、人として、相手を思いやる気持ちがあればしないことを、してしまうのは、する側の良心の問題です。言ってはいけない、してはいけない事は、道徳と倫理で判断のつく事です。

してもいい理由など存在しません。力や言葉の暴力や支配は、された側のせいや、決して、される側の自己責任ではありません。

私は、裁判をして、昨年高裁でA型事業所での被害の事実認定を貰い勝訴していますが、自身が受けた被害等を当初、役所や県庁、労働局と、行政に相談しましたが信じては貰えませんでした。

県の虐待防止対策班には、この度あらためて自身の一審と高裁判決の内容とともに、知的障害の子達への虐待を通報しました。当時と現在のA型事業所での事を話し、「今後被害相談があったら、大した事ではないと決めつけず、相談者が信じて貰えるように記録を残して欲しい」とお願いをしました。「無かった事にしないで下さい」と時間をかけて丁寧なお願いをしました。

虐待防止対策班の方は、私がたらい回しで行政に信じてもらえなかった事について、「同じ公務員として申し訳ない」と言ってから最後には「我々の仕事は今と未来の為に仕事をしています」「我々もこのままにするつもりはありません。」と言っていました。私はその最後の一言を信じたいと思います。倫理的な解釈には道徳心が必要であり、有事は人間性を図るリトマス紙のようなものです。人によって受け止め方が異なるのは、人間性であり、その人自身の本性かも知れません。行政で働くその方個人の良心と職員としての使命感に委ねるしかありません。

そして、私に障害がある事を理由に私の言う事は信用出来ないから被害事実はない、とした労働局と国に対しての国家賠償訴訟は進行中です。

私は弱者でも強者でもない1人の人間です。

私なりの人生経験を積んできました。

その経験は辛く苦しいものだけではなく、豊かなものも沢山ありました。それらは誰にでもある当たり前の事ですが、労働局は豊かなものなどがある訳がないと全てを否定し、社会性のない障害者は信用出来ないという結論付けをし、被害そのものの詳細な聴取を行いませんでした。

障害者雇用の促進がされる一方で、職場で理不尽な事が起きた時に、された側の議論になるのが現実です。雇用保険に加入していても、もともと障害があるから職場起因ではないから個体要因であると、本人の脆弱性を理由に労働災害にはならないとするならば、この先、障害者は仕事中に何をされても言われても、仕方ない、何が起きても個体要因(自己責任)ということになります。

弁護士が選挙活動を理由に離任する状況でもあり、後任が見つからない為、裁判所に提出する書面は自分で作成してきました。

国家賠償訴訟は地裁支部で単独裁判官が行っていましたが、前回から合議に変更されました。

合議とは裁判官が3人になることです。

私自身、それを前向きに捉えたいところでもあるのですが、前途多難かも知れません。

それでも、諦めないことは大切だと思います。

国家賠償訴訟の次回期日は、9月14日、千葉地裁松戸支部 15時〜 です。

いろいろなご感想はあるとは思いますが、

ご意見や参考になる情報などがあれば、宜しくお願い致します。

コロナ禍の近況報告(神戸の自宅にて)

先日、小野さんから頂いたリクエストを、息子に頼んで文章にしてもらっています。

コロナ騒ぎが始まってから今年で 2 年半、私の生活もこの間、大分変化しています。
オリンピック・パラリンピックも終わり、人権ネットワーク会報も、今年で 100 号になんですね。
東京から神戸(六甲アイランド)に移り、ベランダのお花と楽しく話が出来ていたのに、令和元年の
11 月に灘区の商店街で後ろから押し倒され、石畳の路面に頭を強く打ったため、意識不明の大怪我
をしました。加害者は 80 歳近い男性で、脊柱管狭窄症の病気を持っているにも拘らず、杖もなし
で歩行中、私に後ろからしがみ付いてきました。過去にも何度か転倒し、危険であることを認識し
ていたようですが、傷害保険にも入っていませんでした。私の方は、急に階段から突き落とされ、そ
のあとバットで後頭部を殴られたような痛みがあり、そのまま意識を失っています。自転車や車の
いない商店街で、まさか人間が凶器になるとは思ってもいませんでした。診断名は脳挫傷、くも膜
下出血と書かれています。すぐに息子が救急車を手配し、医療センターに運ばれる途中で意識が戻ったようです。被害届を出しましたが、中々受理してもらえず、警察は地元の人には親切で、犯罪歴もない人なので被害届を取り下げてはと書面に名前を書くように病院まで来ましたが、被害者の立場では考えてくれないようです。急性期の病院で 1 か月近く入院、その後六甲アイランドのリハビリ病院(在宅復帰病棟)に転院し、お正月を迎えましたが、中々退院できず、入院中にも何度か転倒を繰り返し、翌年 1 月の末にやっと退院の許可が出ています。

病院は治療が目的、人権の視点から考えるとまだまだ遅れています。ベッドでも柵をされたので勝
手に動けず、色々な形で拘束されています。食事も病院食、米粒の形も残っていない水のようなお
かゆしか出てきません。若い看護師さんは、優しくしてくれる人が多かったようですが、ベテラン
になると「規則ですから」の一点張り、まるで犯罪者として扱われているようです。 寝返りも一人
では出来ず、トイレにも行けず、それまで頑張ってデイサービスに通っていたのですが、3 か月近
くの入院は本当に大変でした。「このままここに居たらおかしくなってしまう!」と訴え、何とか自
宅に復帰出来ましたが、以前のような生活には戻れません。その後通い始めた別のデイサービス、
送迎時の転倒も何度かありました。雨の日などは、一人で玄関まで下りていくのに 20 分以上かかり、寒い中外で待つのは想像以上に大変でした。昨年末から利用し始めた事業所(看護多機能)と、自宅での生活を比較してみました。家では気ままな生活をしていた私、自分でできることが少なくなってくる中、「施設に入るにはまだ早い」と思っていましたが、調理がままならなくなり、食べる事を優先しての入居、色々と気付きがあります。当然のことですが、「家にいる時の方がよっぽど気楽・・・でも、一人では出来ないことが多くなってきたので、3 食昼寝付きのホテル住まいも良いかも」と考えました。よそ様でお世話になるという事は、生活のリズムや様式が家とは全く違います。

自分のこと(調理など)が一人で出来なくなり、長期入院と後遺症(てんかんの発作)や胃潰瘍の検
査と治療もあり、ショートステイの利用も考えました。 在宅で生活を維持するには、訪問介護や
訪問看護、通所介護などを組み合わせてサービスを利用するのが一般的ですが、他人さまが我が家
に自由に出入りするのは気が進まず、それなら自分が時々家に帰れる事業所がないか探しました。
最終的には、息子が探し出してきた看護多機能型事業所が候補に残り、試しに利用してみると食事
の内容も良く、看護師さんもいるようなので安心です。人間関係に慣れるまでには多少時間が必要
ですが、ここなら何とかやって行けそうです。

先日久しぶりに自宅に戻り、夜中にベッドから起きてトイレに行くときに、靴を探している自分に、
「ここは家なんだから、靴はいらなかったんだ」と言い聞かせる私・・・歩行器を使わなくても一人
でトイレに行けます。施設では夜中の見回りがあり、人が部屋に入ってくるので安心してゆっくり
寝られません。施設では家とはベッドの硬さも違い、防湿シートが敷いてあるため汗びっしょり・・・
寝起きが一人で出来れば、本当は自宅の方がぐっすり寝れます。

朝ごはんは 7 時ぐらいですが、職員さんが一人で動き回っているため、朝早く 5 時前から起こされ
ます。コロナ禍のため1テーブル 4 人に抑えられ、他の人が揃うまでは寒い場所から動くこともで
きません。 着替えをしてから検温や脈伯、酸素濃度などの測定を済ませ、それから朝ごはん・・・
サンドイッチの他にスクランブルエッグや野菜のお浸しや炒め物など、品数は豊富ですが一人で食
べられる人は少ないようです。その後、薬やトイレへの誘導など、職員の人達も大忙しです。「私の
孫やったら、一日で根を上げるんやないかしら?」などと思いながら、自分の部屋に戻り、お昼まで
の時間はリハビリかベッドでの休憩です。

昼間は、テレビや塗り絵、新聞など一人で作業していますが、普通の話が出来る利用者も少なく、
「ごめんね、もっとお話しできたらいいんだけれど・・・」と別の人の世話に走り回る職員、それで
も、お昼の丼物など、美味しい食事を楽しみにしています。週に2回のリハビリや入浴、それ以外に
も内科の先生の往診や歯の定期検査など、結構忙しい・・・リハビリでは利用者との共同作業のた
め、職員にとっても息抜きの時間とセットになっているのかも・・・? なんて考えてしまいます。
夜ごはんもしっかり頂き、薬も飲んだ後、慣れた職員さんから「一人で自分のお部屋に戻ってもい
いよ」と声を掛けられます。ここの事業所に来て大分時間も経ちましたが、自分でトイレに行ける
という事が、とても大事なことと理解できるようになりました。 そして「私はここの入居者の中
では優等生!」やっと、そう思えるようになった今日この頃です。六甲アイランドはお花の種類が多く、お散歩をしていても色々な花が楽しめます。先月も孫(次女)が赤ちゃんを連れて六甲アイラン
ドの家に来てくれました。生後 7 か月の男の子、私の初ひ孫です。体調が良くなれば、自宅生活の時間も長くでき、外泊の手続きをすれば何時でも帰宅は可能です。たまには小旅行に行きたいときは家に戻ればよいのです。身体がしんどい時は、施設での生活が長くなります。お薬の管理もしてもらえ、食事も 3 食美味しい作り立てのものが食べられます。数年前には自由に出来た旅行、早くコロナが 収まって欲しいなと思います

近況2022.5.5

私大腿部骨折で入院を余儀なくされていた頃、もともと左半身にマヒの あった超もだんだん歩けなくなり、立てなくなりました。12月下旬に発症した 蕁麻疹が体全体に広がり、手の平足の裏にビー玉を半分にしたような水泡が大小たくさん出来、自己免疫疾、水疱性類天疱瘡という高令者によくみられる病気になりました。運動不足と便利です。まだ若いのに一気に介護が必要になってしまいました。
おむつの世話になりお陰で私はカブレ、モレ防止に詳しくなりました。訪問看護ではの処置薬の塗り方、体についての相談を受けています。 訪問リハビリでは起立、着座、立位保持、体幹機能の向上を計ってもらっています。 訪問介護の方々には家事接助、身体介護同行援護自宅での入浴介助を受けています。

道路から玄関までのSlemの段差解消にリフトを設置しました。全介助用の車椅子が必要となり、いろいろな車椅子があることを知りました。
介護用品も福祉機器も格段と増えてきたことを知りました。 病院の予約がネットでできることを知りました。 薬局の数も薬の数も薬剤師の数と増え、薬も送ってくれることを知りました。 錠剤が飲めない人の為に口の中で溶ける錠剤があることを知りました。 立てない事以外は元気なので、自車への移票を工夫中です。

私は要支援Ⅰになり特化型リハビリデイサービスに通っています。
理学療法士、作業療法士、柔道整復師、ジムインストラクターがいて心強いです。70才を過ぎるとあきらかに高令者の体になっていくので筋力や運動機能の維持、自宅での正しい食事を心がけています。

介護現場で働く人たちとの出会いが増えました。我が家でこのまま、3人で 暮らし続けることを切望しているので、明確に希望を提示すれば、その人たちは、 共感したり提案してくれたり調べてくれたり紹介もし、一緒に考え働いてくれる 予感がしました。少しづつ現実化していくようで楽しみに思っているこの頃です。

編集後記

コロナは相変わらずで、ワクチン接種4回目の通知を受け取るこの時期になって、また感染者数が増えてきています。いつまでたってもコロナにとらわれたままの生活が続きます。基本に戻り、マスク(熱中症に気を付けながら)、手洗い、せめて感染しても負けない体づくりに努めていただきたいと思います。

会報100号、たくさんの方々に原稿をいただきました。発行までに予定より時間がかかってしまいましたが、やっとお送りできることになりました。

事務局としては、たとえ1行、一言でもいいので、なるべく多くの会員の皆さまから原稿をいただき100号記念号を発行したいと思い、欲張ってしまったものですから、予定よりだいぶ遅れてしまいました。郵便事情がとても悪く、原稿が届くまでにこれまでよりも時間がかかったことも理由の一つです。

また、障害をもちながら一人で暮らしていらっしゃる方には書きたいことはあるけれど、すぐにはできないという事情もあり、今回は現段階で集まった原稿で発行させていただくことになりました。あの方も、この方も、お顔のわかる方には直接原稿をお願いしたいと何度か考えましたが、それぞれのご事情があって送付できないこともあると考えなおしました。

それでも40名近い方々から、お忙しいなか、思いの籠もった原稿をいただき、感激です。本当にありがとうございました。

コロナ感染者がここにきて急激に増えてしまいました。8月27日に予定している暑気払いも開催が危ぶまれます。8月上旬には開催できるか否か決定し、ご連絡させていただきます。コロナ次第です。 

10月頃に予定していた講演会もしくは学習会も、コロナの状況をみながら決定したいと思います。こちらもコロナ次第です。

11月23日(勤労感謝の日)に介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネットの10周年記念シンポジウムうむが開催されます。人権ネットワークが後援団体になっています。藤岡毅先生が共同代表のお一人です。

また、秋田の車いすの数学教諭三戸学さんについて執筆された佐藤幹夫さん著の「車いすの先生奮闘の記録 彼はなぜ担任になれないのですか」が6月末に言視舎より発刊されました。皆さまぜひお読みください。

今年は梅雨が短かったと思いましたが、ここ一週間は全国各地から大雨の被害に関するニュースが流れてきます。安倍元首相が選挙演説中射殺された事件も衝撃的でした。これ以上不幸な事件が起きないことを祈りつつ、皆さまにはお体に十分ご留意されお過ごしください。

(事務局)