会報98号(2021.12.25)

西村の出会う発達障害の青年

20歳代後半の青年は文字が書けない。うまく書けないというべきか?それが原因のいじめで、小学校から不登校である。その後、不登校児を支援する場所で学び、更に、彼は、民間の夜間中学でも学んだ。彼の場合、知的障害はない。ディスレクシアは、発達障害の1つといわれる。枡や線がないと文字がうまく書けないと本には書いている。自閉症スペクトラム障害の人に、多いとも言われている。今、彼はパソコンのおかげで、普通の働くことができている。

彼の説明だと、手書きの書類を出せといわれたら、普通の人の4倍、5倍も時間がかかるけど、パソコンを利用すれば、違いはないということだそうです。
トムクルーズは、pとqの区別など、複数のアルファベットの識別ができないそうで、台本は誰かに読ませて(録音して)記憶をしていると、どこかの本で、ずっとずっと昔読んだ記憶がある。
次は23歳の青年。この青年の診断名はADHDである。その特徴は顕著である。でこの青年は知的障害はない。知能指数的には、西村よりいいかもしれない。この青年の場合、ADHDの特徴がすごい。つまり、(注意欠陥の方がすごいので)集中力が全く成績は低い。頭が悪いのではない。多動でもあるので整理整頓もできない(双極性障害の躁状態の人は、10分毎違うことをするから整理整頓は無理だった)。だけど、この青年、数字は10桁すぐ覚える。私の携帯番号も、電話番号も、「やばい」くらい一瞬で覚える。この青年もパソコンのおかげで、仕事はちゃんとやっている。整理整頓は苦手だが、仕事のルールは遵守できるし、人にやたら優しい。すごく優しい。彼のセールスポイントを利用すればいいんだ。

更にもう1人、この青年は40歳になる。青年とはいえない。レベルの高い高校をでて、それなりの偏差値の私立大学も出た。でも、対人関係がだめ。そのおかげで仕事ができない。障害者の作業所で長く働くが、いやけがさし、アパートに閉じこもること10数年、浦島太郎である。私がかかわり、社会生活に戻る。彼は自閉症スペクトラム症であり、少し前だと、アスペルガー障害という障害である。この人の場合、親が彼を信頼していないことが、問題を悪化させている。アスペルガー障害を理解しようとしない親は案外多い。この家庭自体高学歴の家庭で、父親はお堅い仕事についていたから、「なぜできない」「なぜ怠ける」という評価が、息子さんを苦しめた。できることもあれば、できないこともある。それが人間なんだけどね。

10月、私が補助人の「アスペルガー障害」の30歳代の青年に会ってきた。
少年時代に犯罪を犯して私が少年審判の7日前に付添人になった。ご両親とも「こてこて」のアスペルガー障害(診断名はついていないけれど、話をすればわかる)。少年の妹は某有名公立高校で、その後早稲田大に進んだ(彼女も自閉症スペクトラムである。)。両親は、少年審判の後(高校は退学していた)、遠方の入所施設に入れた。数年して、その入所施設が保佐手続きをするというので、西村に連絡をしてきた(母親が彼の賃金を奪うのである。彼は一般就労である。)。施設は彼の賃金を守るために、西村に補助人・保佐人になってほしいと連絡をくれた。両親の「おかしさ」はわかっていたので、私は補助人になった。某田舎で30歳前後の彼は、10数万円の賃金と6万円余の障害基礎年金(精神障害の手帳)を得ている。あれから犯罪に出たこともない。
自閉症スペクトラムの人は、多い。私もあなたもその裾野の位置しているだろう。医師や科学者や学者には、ここかしこに、自閉症スペクトラムの人はいる。
西村は「自閉症スペクトラム」と書いているのは、これはとりあえず社会の中でやれている人という意味である。「自閉症スペクトラム症」「自閉症スペクトラム障害」という場合、その症状故に、支援が必要な状態にある人という意味に、使い分けています。どこかの医師が本に書いていたので、パクッています。
自閉症については、20年前、15年前の本はもう古いので、できるだけ、2015年以降に初版とある本を買いましょう。診断基準は2013年(アメリカの基準の変更)に代わっているからです。診断基準が変わると言葉が変わります。

こんな、時だからこそ

皆さん、クリスマス会行かれた方はいかがでしたか。
たくさん盛り上がりましたね。毎年恒例ながら、絆が大切だと感じました。
コロナ前は、当たり前のように生活が安定してましたね。
ところが、コロナが、出てから、世界を支配するように、なりましたね。
マスク不足は、当たり前でした。
飲食や、居酒屋も、ほとんどが、時間に、限りがあるなど、緊急事態宣言時には赤いのが、記されており、世の中を、ただ、コロナ渦に、なるだけのものでした。早く、世の中が豊かになり、もとの生活になりたいと感じました。

母のこと、諸々

母に会うことの弊害もある??
10月18日、母が病院から介護施設に移った。病院に8ヶ月もいて、今度こそは自分の家に帰れると思ったのに、また別の場所、拒絶反応がすごいだろうと思っていたが、特に問題なく、不思議なくらいすーっと介護老人施設に入れた。なんだか拍子抜けだった。
伊勢崎にあるこの施設は、利用者全員が併設のデイサービスに行く。デイサービスから介護施設への送りのお手伝い名目で、夕方会えるのだ。実際、施設の職員のみなさんは、30名の利用者を施設まで移動させるのに何往復もしていた。午後4時くらいにデイサービス施設前に行くと、家族が待っている利用者を優先的に外に出してくれる。
母は私の姿が見えると落ち着かなくなり、うろうろ始まる。一緒に行った主人、息子が、「幼稚園か保育園に子どもを迎えに来た親のような気分だな」と笑う。施設から出てきた母と手をつなぎ、チョコレートの一つも口に入れ、施設までの100メートル位の道を歩く。これまでリモートでしか面会が叶わなかった病院のときと違い、直接会えることの幸せを感じる。母も声の届く、体のぬくもりの伝わるこの施設での面会を喜んでくれている、と思っている。母の好きなおまんじゅうやアンパンをたとえ一口でも食べてもらえることが嬉しくて、母の口に押し込み。母も「うんまいねぇ」。
今月に入って、施設の方から、「一日のうち二時間くらい大変な時間があります。夕暮れ症候群で、皆さん、どなたも落ち着かなくなるのでその時間だけ好きにしてもらい、見守っています。すると、だんだん落ち着いてきて、食事をし、寝るまでのパズルの時間にはご機嫌が直って、とても楽しそうに笑っています。それが終わるとお友達と手をつないでお部屋まで帰っていきます。夜もよく眠れています。食欲もあります。」と母の様子を聞いていたので、なんとかなっているなと思っていた。
ところが、それから5日後、弟から「母大暴れで、明日入院していた病院に診察に行く。今週の面会はひかえてください」とメールが来た。すぐに施設に連絡すると、「このところ特に帰宅願望が強く、デイサービス終了時間に家に帰ろうとする。それを制した職員を突き飛ばしたり、手をかじったりする。薬の調整をして落ち着くこともあるので、明日病院に行って薬の調整をしてもらうことにする。こんなことは施設では頻繁で、特にお母さんだけが暴力的でひどいということはありません。娘さんに毎週会えるのに置いて行かれる不安な思いが募ったということも不穏の理由の一つかもしれない。仮定の話ですが。少しの間直接会うのを控えてみてはどうでしょう。苦しいのはお母さんですから、楽な気持ちにしてあげたいというのがだれもが思うことです」
会うのがいけないなんてどこにも、何にも書いてない。母だって会いたいに決まっている。とは思うが、「なるべく会いに来てあげてください」と言っていた施設の人がそう提案するいのだから、そこを押してまで会いに行けない。12月は様子を見ることにした。

母が、「清美がこない。清美に会いたい」と訴えてくれないかなと思うが、そんな連絡は来ない。寂しいけれど、とても残念だけれど、リモートでは会えるのだから少し我慢。今はがまんするしかない。生活に張りがない。早く会いたい。

クリスマスイルミネーション
父が亡くなりお正月はない。冬は父の作った大根、ほうれん草が特別おいしかった。沢庵や白菜漬けがおいしかった。厚いお餅がおいしかった。手作りのお味噌が絶品だった。
父のいない初めての冬は食まで満たされない。もっともっと感謝して、大事に食べておけばよかった。後悔ばかりの10か月だった。そんな私の気持ちを盛り立てようとしてくれたのか、主人が庭に飾るクリスマスツリーをプレゼントしてくれた。息子も、「まだツリー、飾らないの」と気にかけてくれた。お正月はないけれどその分クリスマス、きれいに飾ろうと庭に電飾を飾った。小さな子どももいないのに。でも、前のお宅のりとちゃん姉妹が大喜びしてくれている。この庭に何度も来た父も喜んでくれているに違いない。

雑巾
なんということはないのに、事務所の朝の掃除のときに毎回同じことを考える。事務室の掃除に使った雑巾を洗う。最後、シンクの水滴をふき取る。この一番最後の仕事をしてくれた雑巾が洗えない。一体全体、私はどうすべきなの。一番の功労者に何もできない。行き詰ってしまう。そんなつまらないことを考えている。私は平和だ。

コロナ禍の娘
看護師の娘は、コロナワクチンの予防接種のお手伝いに何度も駆り出され、大規模接種会場に行った。医師、看護師、検査技師、誰彼のことを会場では「先生」と呼ぶのだそうだ。違和感のあった娘もちょっといい気分になったらしい。しかし、中には接種の後遺症が怖くて震えている人、泣き出す人、接種後気分の悪くなる人もいたらしい。娘は一時間に130人とか140人とかの機械的な接種では声かけがなく、却って不安をあおってしまうと考えるようになる。先生などと呼ばれ気をよくしている場合ではない。それからはなるべく明るく接すること、声掛けすることに努めた。受付の人も、案内役の人も、「小野さん」と呼んでくれるようになった。俄然、会場の雰囲気がよくなった。会場全体からすれば、わずかな改善かもしれないが、学べたことは多かった。

小次郎
雄犬。8歳。私が甘やかすものだから、私に何か食べ物をもらえると思ってか、私の帰宅時はクン、クンという甘えた鳴き声がひときわだと義母がいう。小次郎は目が不自由だ。なれた家の中では特に不自由さは感じさせないが、すぐ近くを行き交う友だち犬もわからないようだ、というか、鼻も悪い?のか。不憫さが小次郎を甘やかしているとしたら、小次郎に失礼だ。そうは思うのだが、シーチキンの缶を開ける音に駆け寄ってくる小次郎に、缶に残ったわずかなシーチキンくらいお裾分けしたっていいでしょ。

令和3年11月20日 おしゃべりde日比谷公園散策

参加者は8名でした。
日比谷公園では19日から21日まで噴水周辺を会場とする福島県フェアが行われていて、コロナ緩和にともないたくさんの人出でした。
日比谷花壇脇に集合しました。特に参加連絡必要ありませんとの告知で、参加者は粟谷さんと小野だけと思っていたところ、松澤さん、塚本さん、夕方からの月例会には参加できないけれど、と井上さん、石川さん、石川さんのお嬢さん、Mさんと久しぶりにお会いする皆さんと楽しいひと時を過ごすことができました。粟谷さんは終始にこにこでした。だって、男性一人でしたから・・・・
池の周りのもみじは見ごろで、緑から赤へのグラデーションが見事でした。窪田先生が以前紹介してくださった「つわぶき」も暖かいせいか大きく成長し、黄色い花を鮮やかに咲かせていました。
松本楼近くの「首掛けいちょう」はものすごい大木で、行きかう人々がカメラを向けていました。池の周りを一回りし、腰かけておしゃべりしました。仕事のこと、親の介護のこと、お子さんの仕事のこと、目前の老後のことなどなど。
お昼はせっかく福島フェアをやっているのだからと、200円の入場券を買い、会場内の海鮮などを食べようということになり、それぞれ希望する食べ物を並んで買い、芝生の上でゆっくりおしゃべりしながらいただきました。おいしいけど、意外と小さい、量が少ない。ちょっと高いかな、と感想でしたが、おいしくいただきました。
松本楼のランチはまた次回にということになりました。
お天気に恵まれ、上着がいらないほどでした。芝生の上も気持ちいい。3時近くになり少し肌寒くなってきたので、席を立って、裁判所よりの東京都が運営する喫茶室でお茶をのみ、午後4時くらいに散会となりました。
会って、おしゃべりするって本当に楽しいですね。

12月19日 クリスマス会報告

予約人数は12名でしたが、前日、当日飛び入り参加もあり、全員で15名になりました。
道に迷う人続出で、石川さん1時間40分、Mさん40分、清水先生10分とキタノイチバまでたどり着けない人が多く、もっとしっかりした地図にすべきだったと反省です。最後は靴が行方不明になったりして、、、波乱万丈のクリスマス会でしたが、松尾和幸さんからたくさんプレゼントをいただき、じゃんけん合戦で盛り上がりました。ありがとうございました。

(近況)
kさん・・八王子の家を買ったがなぜか家が好きになれない。腰が痛い。
Iさん・・コロナ前がどんなに幸せだったか改めて感じる。
Sさん・・働く障がい者の弁護団には発達障害の人からの相談がおおい。
Mさん・・在宅勤務。会社にほとんど行かない。
Fさん・・太極拳の試験に合格した。息子と九州旅行した。
Mさん・・私は戦争体験者。息子がPCを手伝ってくれる。85歳までがんばる。
Kmさん・・去年より参加者が多く楽しい。
Iさん・・突発性難聴で耳が聞こえにくい。浮間船渡での勤務始めた。
Ikさん・・グループホームを運営している。数年後には介護施設も開設したい。
IAさん・・忙しすぎるので役職を解いてもらった。新しい寮で生活。
Tさん・・酔っぱらった勢いで、ついつい政治の話などしてしまい、猛省している。薬とお酒はよくない。ごめんなさい。
Oさん・・会としてなにもできていないのに、たくさん寄付や会費をいただいている。
Aさん・・コロナでできないことばかりだが、がんばっていきましょう。
Mさん・・裁判、良い結果が得られました。ありがとうございました。