会報97号(2021.11.2)

訃報

人権ネットワークの活動を陰ながら応援してくださった弁護士 柏原晃一先生がお亡くなりになりました。

人権ネットワークの活動に理解を示し、物心両面で支えてくださっていた弁護士の柏原晃一先生が去る9月8日85歳でお亡くなりになりました。病気療養中ではありましたが、お元気な様子でしたので、突然の訃報にびっくりしました。

清水建夫先生がChange Japan!という政治的な動きをされていたときに清水先生の意見に賛同し、欠かさず参加されていました。いつも公平に双方の意見を聞き、対立のある場合はとてもうまく調整してくださっていました。そこで人権ネットワークの活動を知り、会の趣旨に賛同し、何度もご寄付いただきました。

柏原先生は、
Chenge japan!と人権ネットワーク合同で群馬県富士見村に行きましたがそこに参加してくださいました。
小さな活動ですが、人権ネットワークの存在を高く評価してくださっていました。

面倒見のよい、穏やかで、やさしい、柏原先生にお会いすることはもうできません。残念でなりません。
心よりご冥福をお祈りいたします。

コロナ禍であることから、ご家族のみのご葬儀とのことで、お花をお供えすることもできず、とても残念ですが、仕方ありません。

裁判当事者として・・・私が裁判する意味

私の裁判はまだ終わってはいませんが、2つの裁判が進行している日々に精一杯ではありますが、せめて御礼までお伝えしたいと思います。

コロナ禍でもある中での傍聴ありがとうございました。何度も来て下さっている方。仕事を休んでまで来てくださった方々。ご意見やあたたかい言葉を下さった方々。私の置かれた状況の詳しいお話しを出来てないにも関わらず、足を運んでくださった方々。皆さん、ありがとうございました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。
一人、自分の思いを確かめるように生きてきました。裁判もしかりでしたが、傍聴席に座っいてくれる人達がいるということで励まされ大変心強く感じます。本当にありがとうございます。
お読み頂いている中にはお会いしたことのない方、お会いしていても私がどの様な裁判を行なっているのか、ご存知のない方々もいると思います。

私は民事訴訟を始めてから4年、そして同時に国家賠償訴訟を始めてからは2年になります。裁判を始めてからも混乱する中では自分が受けた被害が言葉にならずにいました。今までは自分の話をする事に勇気が持てなかったこともありました。それでも、諦めてはいけない、おかしいと思う事は許してはいけない、という思いで裁判を続けてきました。

被害を受けてから8年。少しずつではありますが自分の身に起きたことを説明出来るようになってきました。民事も国賠も、個人的な尊厳を取り戻す為でもありますが、未来の誰かの為でもあると思っています。
裁判は加害者と争うことではありますが、未来の誰かの為、そして自分の為。いま何が足りないのだろうと考えて、これからの未来に何が必要かと、裁判を続けている中であらためて、たくさん話し合っていくことがあるのだと実感しています。
「話し合う」の本分は主張でも言い負かすでもない。皆で考えていきましょうだと思います。当たり前のように決め付けずに。話し合っていくことが必要であり大切だと思います。
自分を含めて、ひとりひとりが出来るのは、お互いさまと言えるような思いやりからだと思います。相手の気持ちに配慮しながら人を傷つけない言葉を選ぶ。それだけで社会は今よりも生きやすくなるのではないかなと。
私と同じ思いをしている人がいて、また誰かに同じ思いをしてほしくないという気持ちから、私のような立場だからこそ自分の言葉で話していくことが大切なのではと考えるようになりました。私は自分が体験しそこから得たことを、必要としている人に届けられたらいいなと思います。そこには私なりの意義と使命があり、社会への貢献と責任という私の役割があると信じ思っています。

思い出旅行の挫折

毎年秋には、これまで行ったところを思い出旅行するのが息子の恒例行事です。アルコールは除いて、私の費用も息子もちで実施しています。まだ日当はもらっていません。

大体10年間の予定は決まっており、今年は九州でした。
来年以降は、北海道、東北(青森、秋田、岩手)、長野、新潟、北陸(富山、石川、福井)、北海道、東北、栃木、関西(大阪、兵庫)、中国・香港、ヨーロッパという予定です。この予定を朝晩何回も問答するのが習慣となっています。

さて、ご覧のとおり大体何回も同じところに決めているのですが(中国・ヨーロッパは初めて)、今まで何度も言ったことのある佐渡が消えています。また、今年で九州は消えるらしいです。
その理由は、推測しかないのですが、本人はせっかくいい気持で旅行しているのに他人に叱られるか、行動を制限されたからです。

佐渡では、3回位泊った大きなホテルだったのですが、佐渡おけさのショウを演じている際、ご本人がぱちぱち手を叩いたりうろうろするので主催者側から邪魔で追立を食ったわけです。私も部屋で休んでいるところを呼び出されて何度か引き取りに行きました。それに、追い打ちをかけたのが、ホテルから両津へ帰りのバスの中に障害者らしい人がいて大声をあげるのでお母さんが必死になだめていました。その人が疲れて静かになったあと、ちょうど運転席の後ろにいた息子が独り言をながなが、ぶつぶつつぶやいていました。運転手は大声をあげた人と息子を同一人物と誤解したらしく「うるさいんだよ。」と言いながら運転席の横に下げられたポスターを激しい勢いでたたいたのです。これは本人にとってショックだったに違いないです。それらのストレスがたまっていたのか、大きな荷物を持って武蔵境からのバスの中で邪魔にならないように注意したのがきっかけとなり、バスを降りてからいきなり殴りかかってきたのでやっとこの旅行がストレスだったことがわかりました。それからは佐渡行かない佐渡行かないの連発で、砂金とりや遊覧船、金山見学など何度も楽しく過ごしたのが噓のようにきっぱりお終いになりました。

今年の九州旅行は、大牟田市にある三井グリーンランド、熊本城登城(障害者・介護者は無料)、別府温泉(地獄めぐり)、北九州市近辺の先祖の墓参などで4泊5日のゆったり旅行でした。最後の夜の小倉ステーションホテルに泊まるまでは順調でした。それまでの宿泊と違い、外に出てぶらぶらできる機会が巡ってきたのがうれしかったのか、初めて一人でホテル外に出ました。小倉駅内部をぶらぶらしながら、お得意の手をぱちぱちしながら歩いていたのでしょう。夜の11時ころ部屋に戻ってきて、「うろうろしちゃダメ」とお兄さんに言われたと訴えました。夜のことだし仕方がなかったと思いますが、さすがにその時間では小倉駅といえども商店は閉まっていて、うろうろしていては目立ったのでしょう。翌日墓参の途中から28年前、25年前、12年前、今年九州4回行った、九州嫌い、もう行かないと何度も言っては繰り返し、東京に戻ってきてからも毎日毎日朝晩それを唱えます。何かあっても、自分で心の整理をしたり、合理化をしたり、ストレスを放散させたりできない人にとって他人からの自尊心を傷つける言葉や行動は、その場所の全面的否定につながるのかなと感じています。

さて、そんなこともある旅行ですが、地方に行って感じるのは、バスに乗ったとき長距離でもほぼ貸し切り状態がよくあります。そんな時にも、運賃は半額しか支払わないので、申し訳ないような気になります。前にもどこかで言ったと思いますが、障害者の生活に必要なお金が支給されれば堂々と運賃を支払って旅行できるのではと感じています。
今回は、佐渡に継ぐ挫折の旅行でしたが、そのあとに一つ展開がありました。以前海外旅行に行くというので、急にはパスポートを取るのも大変だろうと10年有効のものを取得しました。ところが、その後海外のニュースでテロの報道などがあり海外は危険と言い出して海外旅行は行かないことになりました。お醤油をご飯にかけて食べる、お皿をなめる、エチケット違反などの心配がなくなりやれやれと思っていたら、改めて10年後に海外旅行が復活しました。その時は、私も95歳になっているだろうから、もうお付き合いは必要なかろうと思いますが、いやお付き合いしようにもできないあの世に行っているだろうから心配は無用ですね。

アコースティツクギター

緊急事態宣言が出されてから、健康のために実施していた長距離のサイクリングや散歩も自粛、自宅でギターの練習に費やす時間が増えてきました。

ギターを初めて弾いたのは中学生のころ、兄のフォークギターを借りて、初心者向けの教本を見ながら練習しましたが、コツがつかめず、あまり上達もせずに挫折しました。
社会人となって2年目、再びギターを弾くことを決意し、初心者用のギターを賞与で購入しました。教本や楽譜も取り揃えて練習を再開しましたが、公私の忙しさが重なり1年もしないうちにほとんど弾かなくなってしまいました。

アメリカの有名ギターメーカーのフェンダー社の調査によると、ギターを始めて1年以内にやめる人の割合は約9割とのこと、ほとんどの方が挫折するというデータが出ています。

ところが、この度の緊急事態宣言、外出自粛を機会にギターを始める方が増え、手ごろな価格のギターが楽器店の店頭から消える事態に至りました。調べてみるとYouTubeで初心者向けの解説動画のチャンネルがたくさんアップされていて、教則本なしでも独学で上達する機会が広がっていることがわかりました。

動画を参考に一から練習を再開し、楽器のメンテナンス方法も身につけ、なんとか簡単な弾き語りができるようになってきました。

写真「犬を抱いた少年」は特攻兵のお兄さん、婦人部のおかあさん達

コロナ汚染、拡大の一方ですね。こんな中、墨田区の取り組みが注目されているとききます。自治体の多くが民間に丸投げする中、保健所と区役所が率先して対策を練った結果だといわれます。民間委託の弊害は他にもあるのですが、いつか触れることにしましょう。

さて、8月15日は終戦の日でした。
戦争の傷跡は今日でもあちこちに残っているのですが、私の郷里の村にもありました。標題の「犬を抱いた少年」はネットで検索すると出てきます。この少年は特攻兵のお兄さんで、当時17歳だったといわれます。現在でいうと高校2年です。群馬県出身だったような? 実は終戦間近の昭和20年に、私の郷里の村にも小さな飛行場ができました。 以下に、歴史の表に出て来ない婦人部のおかあさん達の動きに触れてみます。

ご存知のように若者の男子は兵として戦場に、女子は軍需工場へとかりだされるのですが、残されたのは、子供と年寄り、そして婦人部のおかあさん達でした。さて、昭和十七年、陸軍専用の新設の飛行場の予算が組まれました。海軍は別枠です。
予定飛行場は、壬生、水戸北、成増、松山、児玉、前橋、松本、伊那、大島、新島、富士、小牧、清洲、佐野、由良、広島、防府、高松、蘆屋、福岡、曽根、万世、上別府、唐瀬原。
ここに我が村の名が見えます。難工事だったと聞きました。砂浜の上だったのが不幸の始まりだったようで、人家を無補償で立ち退かせ、松林の大木を切り倒し、山の赤土を削り落として砂浜の上を固めました。小型蒸気機関が牽引するトロッコで赤土を搬出しました。終えると二つの山が消えていたといわれます。さらに、その上に野芝を張って滑走路としました。セメントでなく芝生だったのには哀れすら覚えます。できあがったのが昭和20年の3月でして、終戦の5ヶ月前です。
飛行機が発着すると、誘導は婦人部の手旗信号によるものでした。芝がはげると、婦人部が補修に取りかかります。そして、同じ3月の28日にこの飛行場から特攻機が飛びました。
婦人部のおかあさん達は兵士の分宿に協力し、寝食を共にしておりました。子供達は兵のお兄さん達に遊んでもらったのかもしれません。夜になると、婦人部のおかあさん達は白い布でマフラーと鉢巻きを縫い上げ、人形を作っていたようです。最後の晩餐もおかあさん達の手によるものでした。戦後から時間をおいたある日、婦人部のおかあさん宅を一軒ずつ尋ねる老婦人の姿があったといわれます。「息子の最後の姿を知りたい」と。

当時の小学生は、現在85歳前後になります。電話取材の対象となるのはこの世代の皆さんになります。当時、子供達は飛行場へは近づけなかったのですが、戦場へと飛び立つお兄さんの顔を間近にくっきりと見ることができたといいます。当時を思い出すのが辛そうでした。実は名残を惜しむかのように飛行機は、村の上空を低空で2回旋回しておりました。やがて、真正面に飛行機がジワリと迫ってきます。

白いマフラーに白い鉢巻きのお兄さんの顔。そして、操縦席の前には人形がつるしていたというのです。子供達は手を振り、おじぎをしました。すると操縦席のお兄さん達は、翼を上下に振って応えました。飛行機はそのまま、沖縄方面の南の空へと向かったのです。子供達は飛行機が小さくなるまで見送っていたのでした。

ここまでを、電話の向こうのAさんは声を震わせ、絞るように放すのでした。
聞いている私も辛くなりました。

中国の八路軍の捕虜兵を駅で出迎え、お茶で歓待したのは婦人部のおかあさん達だったとききます。この捕虜兵の一人が湯飲み茶碗をポケットにそっと入れて隠しました。家宝にしたということを終戦後に知ることになります。

この捕虜兵が帰国してからの追跡をし続けた人が地元にいました。茶碗は孫が遊んでいるさなかに壊れました。でも、昔捕虜兵だった彼はセメダインでくっつけて飾ったというのです。

<会員のみなさまの近況>

このコロナ禍で黙々と我慢を重ねる息子に加え、我が家でも着実に認知が進んでいく94歳の母がおります。
世間一般的には手が掛かる方ではない母でも、日々の生活の中ではストレスも増していきます。
諸々を抱え、私はいつまでこの自宅での生活を続けていけるだろう、と思います。
母に対しても、とっても優しく接する時と言葉半分に対応してしまう時色々あって、でも母は娘の私に全て委ねているのが分かるのです。
結局今出来る事を、出来るだけするしかないと1日1日過ごしている毎日です。
各々に色々な思いを抱えています。頑張って参りましょう。。。

勤務先で褒められることのない私ですが、先日、先生から「植物がよく育つね。どこかで勉強したの?」と言われました。事務所の観葉植物たちはこの夏ぐんぐん成長しました。何を褒められるより嬉しかったです。そして私は、家の小さな畑に大根、そら豆、絹さやの種を蒔きました。毎回ほぼ費用倒れですが、植物の成長を見守るのはとっても楽しいので、めげずにがんばります。

今就職先を探しています。面接が終わり、結果待ちです。決まりました。仕事がんばります。
クリスマス会のお店は私がよくいくお店で、従業員の方とも仲良しです。予約は私が担当しました。みなさん、ぜひ参加してください。

自閉症の息子が私と外出し、足の調子が悪い私がちょっと目を離したすきにいなくなくなり、2時間ほどして、警察から連絡があり、スーパーで万引きをした、すぐ来てほしいとのことでした。お店の人にあやまり、警察に息子を引き取りにいきました。だんだん息子の行動力に私がついていけなくなっています。