会報96号(2021.8.13)

コロナに縛られて

菅さんしっかりしましょう。
このままでは、ただ、国民から恥をかくだけの総理大臣生活になってしまうような、気がしてなりません。
と言うのも学校の、教壇でこれから出席をとると言うのと変わりはない。
しっかりして欲しい。
骨抜きの日本と、いつしか言われてしまうであろう。
こんなことではワクチンは、間に合わないはずだ。
今までに、何度か目の当たりにした犠牲者は、実に生々しく国民の自由を平気な顔はしてはいないだろうが、あまりにも信頼はされてはおらずまさにひどいとしか言えない。
早く元の生活に戻るように、国としても挽回をするべきであるとわたしは思うが、みんな飲み終わったジュースの空き缶のように、知らんぷりだ。
さあ、立ち上がれ菅内閣。
さあ立ち上がれ日本
わたしは、少なくともそう思いたい。

身近な差別に向き合う力

東京オリンピック開閉会式の制作メンバーで,作曲家の小山田圭吾氏は過去の「障害者いじめ」発言の批判を受け,楽曲制作担当を辞任し,謝罪をしました。さらに,東京オリンピック開会式の演出担当を務めてきた元お笑い芸人の小林賢太郎氏は過去にユダヤ人大量虐殺をコントの題材にしていたとして解任されました。また,東京オリンピック開会式への出演が決まっていた俳優の竹中直人氏は過去に視覚障害者をやゆした出演作が批判され,東京オリンピック開会式前日に辞退していたことが報じられました。

東京オリンピックに携わる関係者の辞任・解任劇を通して,私たちの身の周りにある「いじめや差別,誹謗・中傷」に視線を注いでほしいと願っています。ダイバーシティ,インクルーシブなどの理念を掲げさえすれば,いじめや差別,誹謗・中傷が少なくなるのでしょうか。私は,理念と現実の乖離が起こっているように思います。

私は生まれつきの脳性マヒ者で,障害のある教員です。私の教員生活を可視化することで,身近な差別に向き合おうとしてきました。希望しても学級担任を経験できないことを可視化し続け,ここ最近,課題を共有されるようになってきました。

2019年6月6日,2020年3月19日,参議院厚生労働委員会で福島みずほ参議院議員が質問し,2021年3月16日,参議院文教科学委員会で船後靖彦参議院議員が障害のある教師の課題を質問しました。私の問題でなく,障害の教員の課題として,国会で取り上げられました。船後靖彦参議院議員の質問に,萩生田文科大臣は,次のように答弁しています。

「まず一般論として申し上げれば,担任を含めた学校における校務分掌は各学校長の権限と責任においてなされるものですが,合理的配慮は個別の事案ごとに具体的場面や状況に応じた検討を行うことが必要であると考えています。障害のみを理由として,障害者でない者との間で不当な差別的取扱いすることはあってはならないということは言うまでもありません。個別の事案については詳細を承知していないのでコメントを控えたいと思いますが,例えば今先生が御紹介いただいたこの20年選手の中学校の先生で言うならば,確かに地震のときに自分が先導して子供たちを誘導できないということがもしかしたらお体の関係であるのかもしれないけれど,中学生ですから,おっしゃるとおり,あらかじめ避難訓練などでそういったことを身に付けておけばいいと思いますし,私,こういうときこそ,例えば加配教員ですとかアシスタントティーチャーですとか,こういう人たちの存在が意味をすると思います…校長先生が恣意的に,自分の保身のためにこの人を担任に就けないということを断定的に申し上げるのは,私は避けたいと思います。ただ,いずれにしても,もう20年も経験を積んできた先生が担任を希望しているのになかなかそのチャンスに巡り合えないというのはちょっと残念なことなので,これは一般論として引き取らせていただいて,しっかり対応を考えてみたいと思います」

このような文科大臣の考え方に勇気をもらいました。しかし,現実は学級担任の希望は叶いませんでした。

「総合的に判断して,今回は担任になれない。持ち上がりの3年生も希望していたが,それもできない。全体のバランスを考えました。あなたに障害があるから,担任ができないと思っていない。あなたは学級担任できます。今回は総合的に判断しました」

毎年,私は努力の方向性が見えなくて悩みます。何をクリアすると,学級担任になれるのか希望を見いだせない状況です。秋田県教育委員会は,次のような見解です。

「学級担任の決定については,校長が生徒の実態を踏まえ,所属している個々の教員の能力や適性等を総合的に考慮して判断しているものと捉えております。また,校長は市町村教育委員会の助言を得ながら学校経営に当たり,指揮監督に服さなければならないことが法に規定されております。県教育委員会は市町村立学校における学級担任を含む校務分掌の決定に関わることは,それが法令等に明白に反するものでない限り適切ではないと考えます。担任になるための条件が,明確にあるわけでもありません。採用試験を通れば,教員としての一定の資質は認められています。だが担任となると,その時々の状況を勘案して校長が決めます」

21年間も学級担任できない教師は他の教師と異なる扱いをしており,これは障害を理由とした差別ではないでしょうか。

文科省は【教育委員会における障害者雇用促進プラン】で,【児童生徒等にとって,障害のある教師等が身近にいることは,①障害のある人に対する知識が深まる②障害のある児童生徒等にとってのロールモデルとなるなどの教育的効果が期待されるところである。さらに,新しい学習指導要領において対話的な学びの実現が求められる中,障害のある教師等との対話は,児童生徒等にとって,共生社会に関する自己の考えを広げ深める重要な教育資源となることも期待される。こうしたことも含め,学校現場において障害のある教師等がいることは,いわゆる「隠れたカリキュラム」となりうるものであり,教育委員会における障害者雇用を積極的に意義付けて,取組を推進することが適当である】と述べています。

障害のある教員が学級担任になれない状況はプラスの教育効果でなく,「障害があるから,学級担任になれない」と間違った,差別を助長するメッセージを伝え続けていくことになるように思います。

いじめはよくない。差別はするな」と,教師は子どもに教えます。私は身近にある差別を可視化して,一つ一つ解決していくことが教師として役目と思っています。
森元首相の女性蔑視発言,東京オリンピック関連者の辞任,解任を他人事とせず,身近な人へのまなざしに変えていきませんか。身近な差別と向き合い,「NO」と言う力がダイバーシティ,インクルーシブな社会を具現化する原動力になると信じています。

コロナ禍ワクチン事情について

国内のコロナ禍はいつ収束するのでしょうか?

我が息子は感覚過敏症なのでコロナ禍のためであってもマスクはつけられません。無理に付けようとすると引きちぎってしまいます。ズボンのスソあわせにも密な試着室には連れて行けないし、土日祝日の外出は出来る限り避けて最小限にしております。普段の日は減量の為、散歩していますが、6時半ごろから人通りの少ない時間を選んでいます。
本当に、早くこのコロナ禍のワクチンが接種できるようにして欲しいものです。
なので、今日の土曜日の昼下がりも子供とベランダランチを楽しみました。
今日はおうち手打ちうどんにしました。カレーうどん、冷やしうどんとつけ麺の三種類を作りました。当然ながらてぬきと狸はやっていません。
さて、我が国のワクチン接種については、マスコミが取り上げているように英国や米国と同様順調にワクチンを確保できているものとばかり思料しておりました。
ところが5月に入っても板橋区などは高齢者についてはワクチン接種の予約も出来ておりません。私のように65歳で、心臓弁膜症になり人工弁にしなり、手術の時に右肺を潰しています。糖尿の既往歴もあります。ワクチン接種を早くして欲しいと首を長くして待っておりました。ところが、朝5時のニュースで日本はファイザーのワクチンが人数分確保できていないというじゃありませんか。これには驚きました。

こういう状況では、ワクチン争奪の戦犯を政府が悪かったのか?ワクチン確保を依頼されている商社が悪かったのか炙り出さなければなりません。
合法的手段で入手しているのは平時の判断基準。危機における政策の決断ですから合法的にやっているからといって免罪されるものでもありません。
危機対応においては、法律的には適切な緊急避難をしたかどうかが重要です。
大きな損害を避けるために小さな損害を与えても良いというのが緊急避難の法理です。大きな損害を避けるための選択肢が一見違法であっても緊急避難として正当ならばその違法性は阻却されます。今回のコロナ禍騒動にはそもそも危機は不確実で想定外の連続です。そんな危機において、リスクゼロはという政治的選択はあり得ません。どの選択肢をとっても何かしらリスクはつきものです。

リスク判断を単純化すれば、
1. 目の前の確率の高い小さなリスク
2. すぐ見えづらいリスクだが実現するとおおきな損害を被るリスク
の二つ。

比較衡量して確率と損害の積の小さい方を選ばなければなりません。
危機突破には、目に見えやすいリスクに怯まぬ勇気と責任感が不可欠です。
目の前の小さなリスクを避けるため、かえって大きな損害を招いてしまうのは、最悪の危機管理の選択だといわざるを得ないでしょう。
FACEBOOKでやり取りしている女性の方がこの三月に米国のオハイオ州のコロンバスに旦那さんの異動のため赴任されました。その女性のFACEBOOKを読むと、日本に居た時よりも米国から日本を眺めたほうが日本が良くわかるそうです。一体全体日本は何をやっているのかともどかしそうです。

【僧都ヶ浜関所(そうずがはませきしょ)】同行援護の制度を使って史跡散策

近くの土々呂(ととろ)に僧都ヶ浜関所という名の珍しい史跡があることを知りました。
まるで古典文学の世界です。
そこで、この関所の史跡を捜すことにしました。

初日は冬の晴れた午後、葉書を投函してから牟田・岩崎を通り、南一ヶ岡団地と山との境を横断し、医院付近から下って、東斜面に出ました。ここで右折して霧島神社と極楽寺との間に達したものの、それらしき道標または銘板などがありません。どうやら間違ったようであります。そういえば、西階城跡や松山城跡付近を歩いたときも何もなかったような?

そこで、石段を上がって霧島神社の宮司さんにお尋ねすることにしました。しかし、不在。日を改めて行ったときも留守でした。その足で隣の極楽寺へ向かったのです。来客があってまたもや引き返しました。

次の挑戦は、旅人や地元民の前に立ちはだかっていたのではと思われる海岸近くの山の頂です。もしかして何かしらの痕跡が?…と。医院近くの前から東斜面に下りきった道路向かい側に赤い鳥居が建っていましたので、ここから登ることにしたのです。およそ1300年前にあったといわれる「鈴鹿・不破・愛発」の三つの関所は険しい高所にあって、都から逃亡する者を阻止する兵に加えて、太鼓・笛などを担う兵も待機させていたと記述されています。すぐそこの県北の山あいの集落では、山から山へと狼煙も合図に使われていたとの言い伝えがあることを教わりました(電話取材)。ここは延岡藩の国境(くにざかい)を守るための関所だったのか、それとも通行税を徴収するだけの関所だったのか…、どちらだろうかと語らいながら登っておりました。いずれにせよ人が常駐するだけの広さを要します。

この山は緩やかな傾斜だったけど、私は直ちに息切れしてしまいました。木々が覆い被さっています。ヘルパーさんの手を借りてなんとか登頂できたのでありました。頂上には祠があります。ヘルパーさんによると、下にあったのは赤い鳥居だから、お稲荷さんではなかろうかと解説します。石碑らしきものがありません。もしくは気づかなかったか?
ヘルパーさんは私を残して反対側、つまり霧島神社の裏へと下って行きました。戻ってくるなり、「何もありませんでしたよ」

Aコープからの帰り、伊福形神社をめざしました。参拝を済ませると、幸いなことに、松田宮司さんに諸々の史跡について教わることができたのです。神社や伊形のこと、浜など…。最後に関所跡の大まかな場所を確認して帰路に就きました。

伊福形神社参拝の翌週、土々呂小前の狭い道路前から南へと辿ってみたのです。
ありました!目印にと教わった「川(用水路)と橋」。ガード板に銘板が貼り付けてあることに興味をそそられました。一般に、親柱に銘板ははめこまれるのだけどこんな例もあるのですね。
でも辺りには、史跡らしき遺構がありません。路地に入ると、ヘルパーさんは数十メートル南に前述の赤い鳥居が見えたといいます。どうやら、この辺りかなと思うのだけど、人家が迫っていてご近所の皆さんに迷惑かけそうで散策はここまでとします。

ところで、僧都とは僧官の職のことで、二番目に偉い僧位でした。ここでは俊寛という名のお坊さんをさします。平安時代後期、平家の転覆を企てた一人として、俊寛は鹿児島の南の島「鬼界ヶ島」へ流刑となったといわれます。その移送の途中、土々呂の海岸を通ったのではなかろうかということで、僧都ヶ浜の名の由来となったらしい。

それよりもはるか昔、遣唐使が坊津から大陸へ渡ったとき、都からどんなルートで坊津に到着していたのだろうかと興味があったのですが、おもしろい資料を見つけました。

時代はかなり下って、安土桃山時代です。京都から坊津に流刑となった公家がいました。この公家の記録に、京とから坊津までの行程がありましたので拝借します。
「京都→尼崎→佐賀関(大分)→都城→垂水→山川→頴娃→坊津」
延岡の名は出ていませんが、延岡を通過したような気配です。
だから、俊寛が土々呂を通ったと言ってもあながち間違いとは言い切れないのであります。(江戸時代になると、佐賀関港でなく細島港が多用されてきます。延岡港の名もわずか
ですが出てきます。)

【えっ!】

 二つ折りの携帯は今朝も沈黙しています。
昨夜から充電スタンドに据えたままだったので、バッテリー量は十分なはずでした。
もしかして…の淡い期待があったけど、やはり、壊れています。
コロナワクチン接種が済むまで待つつもりでしたが、不便ということで、午前中にドコモショップへ持って行ってもらいました。
そして、早い時間に帰ってきたのです。
どうしたのだろう?
「あのね」に続いて、
「どうしましたか?と係員に問われたので、音が出ない(正確には音声対応ができていない)と言って携帯を差し出したとか…」

係の人が二つ折りの携帯を開いた途端、携帯が明瞭にしゃべったのだそうな。
故障していたはずなのに…何事もなかったかのように、しゃべるなんて!

とても恥ずかしかった…とか、忌々しいったらありゃしない…の下品な言葉は全くなかったけど。
そのような思いで家路へと就いたのかもしれません。
お騒がせしました。
それにしても、何事もないということがいかにありがたいことか、実感したひとときでありました。

【レンコンの花】同行援護

遅い田植えを終えたばかりの田圃があります。この田の近くに、昔レンコンを栽培していたのではと思われる一角がありました。持ち主がはっきりしていないような荒れた沼地です。水は向こう側にあって、手前では履いているこの靴でも踏み込めました。
ヘルパーさんの「わあ 大きい!」「きれい!」に引き込まれて前へと足を進めたのですが、レンコンの花って、こんなに背丈があったなんて思いもしませんでした。私の胸の高さほどです。昔の記憶では、花は水面近くに咲いていたはずなのにどうして?

それに花を直に触ったのは初めてのことでして、花の中心部となるとても堅い部分は何というのかなあ? まるで固形石鹸のような感触でした。これほどまでに大きい花を支えるのですから茎はとても頑丈です。

帰宅後に検索すると、レンコンの花というのは間違いであって、蓮の花というのだそうな。それに、レンコンは蓮の茎だとあります。まだありました。昔の記憶にあった水面に咲く花は蓮でなく水蓮でした。仏さまの花として描かれるのもこの水蓮になります。蓮と睡蓮は別物らしい。うーん、ますます分からなくなったわい!?

ここに咲く蓮の花は、多くの人には気づかれないだろうけど、いつまでも花を代々受け継がれながら咲かせてほしいのであります。
最大の心配事は、突然田の真ん中に出現する宅地造成でしょうかねえ。

【旭ヶ丘の防風林】 同行援護

玄関を出て東へと向かいました。目指す2キロ先には太平洋が広がっています。その手前には今回のテーマとなる防風林があります。この防風林に沿って国道10号線が走っていて、「旭ヶ丘交差点」がその防風林への入り口です。交差点から直ちに下り坂となっていて、下りきったあたりが昔の波打ち際となります。
その遠浅の浜が埋め立てられ、今は巨大な球状のタンクが幾つも並んでおりました。
防風林の向こう側です。

さて、この防風林ですが、45年前は黒松の大木が群生していて、国道はその黒松がトンネル状に覆っていました。今思い出しても、それはもう雄大な風景だったのです。
あの防風林のど真ん中に上司の家だけがポツンとありました。国有林に指定される前からあったのか、不思議な家だったのです。周囲はもちろん黒松ばかり。ここからゴムボートを担いで、私も海へと漕ぎ出して鮒釣りをしたことがあります。のどかな時代でしたねえ。

さて、今回はその黒松が害虫で枯死し、全滅していると聞いて確かめることにしたのです。黒松の防風林が消失してから既に十数年経っているらしく、広葉樹の雑木がはびこっておりました。この広葉樹の名がわかりません。特定の木を指定しての植林ではないのか、いろんな樹木が広がっています。実際はどうなんだろう?荒れるに任せているかのようでもあります。

交差点から下る道路が右カーブを描く辺りから、防風林が取り払われていることに気づきました。工事用立て看板を読むと、旧財閥名を冠した水産加工工場の建設予定地とありました。広大な敷地ですので巨大な建物かもしれません。地元には昔馴染みの水産会社があるのにと思うのだけど。
元上司の家があったらしい場所も呑み込まれているのかもしれません。おそらく、国有林の指定を解除して、工業地となったのかもしれません。

私の数少ない思い出の地はどんどん根元から切り払われて抹消されていくのでありましょうぞ。
ところで、このまま南へと進むと中学校の部活動施設へとつながります。まだ少し距離があるかな?

またもや田圃の話題です。

田植えの済んだ畦を歩きました。
同行援護のヘルパーのAさんがパワフルなお母さんでして、歩く度に発見があります。
いつもと違うのは、コンクリート三面張りの水路に勢いよく水が流れ、溢れていたことです。轟音が響きます。

そんな中、取り残されたような水路があって、2週間前の状態と変わりありませんでした。
つまり、水は流れてなく汚いままでした。
何を間違ったか、そこにカエルが卵を産んでいました。二週間後の本日、覗いたら、まだおたまじゃくしのまんまです。
三面張りの水路を人が管理すると、手違いもおこるのでしょうねえ
土と雑草に囲まれた昔風の水路だったら、水は自然に浄化されるし、まんべんなく水は行き渡るのに。
あのおたまじゃくし達は親カエルになれるのかなあ。
心配になってきました。

クリスの話

先月26日、クリスは13歳を迎えました。

人間齢に換算するには×6だといわれます。
つまり、78歳です。
そして、盲導犬の仕事を引退して3年目になります。

近頃の散歩は昼前と夕方の2回が組まれております。
昼前は、家人が連れていますので、クリスは仕事モードからは完全に切れていると判断しているのか、リラックスモードのようであります。道すがら、あちこちの匂いに好奇心旺盛であります。公園の芝生では、気持ちよさそうにゴロンゴロンと寝返り…。

夕方は、私が加わりますので、私の指示待ちらしき動きがあります
13歳という年齢もあるのか、ゼーゼーと喘ぎつつ歩を進めています。
とはいいつつも、帰宅すると元気であります。途中に会う大人や幼児からは「かわいい!」とかけられます。おそらく、私への言葉なのでしょうね。その証拠にクリスは無反応です。
玄関チャイムには迫力ある強面の吠え方で応じていますし、私の携帯のコールには足踏みで知らせようとする動きがあります。

近頃こんなことがあります。
空腹を家人に訴えるのに、片足で床を叩くのだとか。
私は気づいていませんが…。

動物病院は、
前にもお知らせしましたが、20キロ離れた動物病院になっています。薬投与よりも自然飼育を優先する先生のようであります。腹部にブヨブヨした塊がありますが、先生が言うには「良性か悪性かは調べません。悪性と判明したところで切除するとなると体への負担が大きいのでこのままにしましょう」
食欲はとても旺盛で太り気味を指摘されました。

夫婦別姓について

山本さんの意見を参考にしてください

「夫婦別性訴訟について」

法律的には分かりませんが別姓であっても「事実婚」として色々と処理されているのではないでしょうか。
今のご時世は女性職員が「旧姓使用」を申請する方も少なくありません。戸籍も新戸籍を作ることにこだわる方が少ない感じです。
住民票の「世帯主」も住居手当などが受給し易い場合は女性が世帯主になることに抵抗(誰の?)も少ないようです。

夫婦別性、いいじゃないでしょうか。姓を変えたくない方は変えなくても。
因みに私は「昭和」の時代に別性ができなかったので「妻の姓」を選びました。たいした理由はありませんが。
義父は「婿にやったのか」と問われたそうです。当時、世間的に私は「要注意人物」とみられていました。(今もかな?)
当時は男性の戸籍に入り、男性の姓に女性の姓が変わることで一体感、幸福を感じる女性が多かったようです。
働く女性が増えて、社会的に姓が変わることで面倒な場合もあるし、子の姓とかの問題もありますが、自分のことを自分で決められることが私の理想です。

相談への意見

外出したい衝動が抑えられない方に必要な合理的配慮は何か。
外出したい衝動を抑えるのは合理的配慮の範囲外なのか。

難しい内容ですが偉そうに言わせていただくと下記の疑問がでてきます。

  1. 就労支援センターの推薦ということですが、センターからそのことについてどういう助言、提案、があったのでしょうか。
  2. 衝動的に外出することがある事実を何故隠していたのでしょうか。
  3. 衝動的な行為が出現するサインとか状況―環境―はあるのですか。
  4. 勤務を要する日に勤務しない場合は就業規則(あるいは契約書)ではどういう取り扱いになっていたのでしょうか。
  5. 雇用側に「無断欠勤」した場合はその方の所在や安否確認の義務はない(ある)のでしょうか。

私の子どもも衝動性が高く合理的な配慮をしてほしいと思いますが、当事者がどのような障害をもっているかが分からない場合、雇用者側は支援方法がわからないのではないでしょうか。
不適切な支援(配慮)により当事者が実力を発揮できない場合もあると思います。それは当事者にとって辛いことだと思います。
失礼な発言になるかもしれませんが、相談者の方は外出したい衝動を抑えるためにどのような配慮を雇用側に要望されますか。
追伸です。
雇用契約期間中に数回の通常出勤ができなくても、3,4日帰らなくても「仕
事はきちんとこなせていた」と書いてありました。

即ち、毎日通常出勤できなくても支障のない仕事を与えている。このことが
雇用者側の合理的配慮ではないかとも思えますがいかがでしょう。(外出した
い衝動があることを知らなかったとしても)

名児耶清吉さんとお話しました

総会資料をお送りしたところ、会計の掛け算3000☓30人=120,000円と誤っているとFAXいただきました。お電話したところ、

名児耶さん「決してあら捜ししたわけじゃないですよ」
と第一声。よくぞ気づいてくださいましたとお礼をいいました。
名児耶さんは腰を悪くし、今はアルピニストのように?杖を2本ついて歩いているそうです。

杖で両手が塞がるので、雨の日は大変です。傘がさせないんです。
今は集まりに出かけられませんが、またそのうちに、と言っていただきました。
声はとってもお元気でした。

二本杖
転倒予防を目的とした杖です。
また術後のリハビリテーションやウォーキングにも使えます。
杖を両手に持つことで背筋が伸び、左右のバランスが取れ、重心が安定します。
歩行時にかかる負担が2本の杖に分散するため、膝や腰の痛みの軽減も期待できる優れものです。

監事の坂中理夫さんから書面がとどきました。

電話連絡したところ、「移転のため」というメッセージが流れ、通じないので心配していましたが、会計報告の押印をいただけました。
新たな監事の選任は必要ないようです。
電話が通じなかった理由がお伺いできていませんが、一安心です。

杢さんよりお電話いただきました。

昨年手押し車(シルバーカー)で散歩中、後ろを歩いていた老人が倒れてきて、救急車で搬送される大怪我を負いましたが、刑事裁判が済み、民事裁判をしているが、加害者本人は一度も謝罪に来ないのはひどいです。警察も頼りないのです。

今年になり胃が痛いのでお医者さんに行くと胃潰瘍と診断されました。その後300ccくらい下血があり、それでもいつもどおりリハビリに行きました。夜中再度下血(朝の3分の1くらい)があり、息子に連絡したところ、のんびりしていられない、早く病院にいかないと!といい、急ぎ病院を見つけてくれました。朝方病院に行くと即ICUに入れられました。大腸のポリープが原因でした。

ICUにいるときには、何度も何度も、自分がとてもきれいな三途の川を渡ろうとしている夢を見ました。その都度、「杢さん」「杢さん」と呼び戻されました。

長期の入院となり、最初は自分の名前が出てこず、ある時、看護師さんが「杢早苗さん」というので、私も「杢早苗さん」とオウム返しすることを食事ごとに繰り返していましたが、看護師さんが杢早苗さんは杢さんの名前ですよとの意味で、「杢早苗さん」と言い、「杢早苗」は私の名前だと気づき、晴代は娘、千秋は息子、主人の名前が次々浮かび、それがきっかけとなり、記憶が戻ってきました。

今は、自分の名前を書くことはできるのですが、ペンを持つのが大変でそれ以上のことはできていません。遺言書も書いておかなくてはいけないと思っています。

小野さんのお父さんが亡くなられ、早く連絡したいなと思っていました.
本当に事故には気をつけなければいけないと思います。

今回の入院で息子の千秋に随分助けてもらっています。が、私が神戸に来たのは「自立」のためです。以前のように自立した生活ができるよう、がんばります。

元々住んでいた多摩のマンションに大切なものが残っています。それを取りに一度東京に行かなければなりません。その時お会いできたらいですね。