私は平成7年に、下肢の機能障害が発病。足が思うように動かなくなり、骨折し、手術のため入院しました。長い間、すべての生活をベッドの上で過ごし、リハビリの生活に入ったとき、1日でも早く、社会復帰したい、働きたいという思いが頭から離れたことはありませんでした。主治医の勧めで身体障害者手帳を取得しました。
発病して2年後に、やっとの思いで得た職場は大学生があこがれる花形企業でした。ただし私は障害者枠で1年契約の契約社員でした。
契約社員でしたが、残業や深夜労働の連続。内勤の約束が外回りもさせられる等、私の足は悲鳴を上げていました。何度も動けなくなりました。上司に勤務軽減をお願いしましたが、「君だけが大変なんじゃない、他の社員だって大変なんだ」、「わがままだ」と言われ、とりあってもらえませんでした。
「甘えるな」と言われ追いつめられ、2度目の契約の更新をあきらめました。あきらめたあと、どう考えてもおかしいと思い、弁護士会館の相談会や、職安や、労働基準監督署に相談に行きましたが、本気で耳をかたむけてもらえている印象はありませんでした。誰にも理解されない孤独感と、怒りが、結局は私に裁判という手段を選ばせました。
一人でも戦おうと心に決め、書き上げたばかりの訴状を持って、裁判所へ行ったあの暑い夏の日。あれから様々な事がありました。裁判官から問いつめられ、私は一人で何度も立往生しました。裁判は和解で終わりましたが、私の心には、深く、辛い悲しい重いが消えることはありません。
誰でも、平穏な生活を望むはずです。明日、重い病気が自分に降りかかってくるなんて思いません。私もそうでした。でも、なってみて始めて、日本がどんなに障害のあるものにとって過ごしにくい国か、よくわかりました。施設や環境の面ばかりではなく心の面でも。
でも、それを声に出すことはなかなか出来ません。それが自然に出来るような優しい社会が早く来るように望んでいます。