園の仕事に就いたいきさつ
2005年5月から僕は園での洗濯のボランティアを週2回始めた。一緒に作業をしながら指導してくれたのが、今回骨折をしたHさんだ。Hさんは少年サッカーチームのコーチをしているからか、てきぱきと指示が飛んで来た。この仕事を紹介してくれたのは、僕がヘルパーの仕事で応募した社協の会長さんが、面接の時、「君は個人のお宅へ行くより、大きな施設の方が良いでしょう。探してみましょう。」と区内の施設にあたってくれたのだった。
10ヵ月ボランティアをした頃、母が社協の担当者の人(僕の仕事ぶリを見ながら、母に報告したり、施設とうまく仕事が運ぶように交渉してくれた)に上井草園で仕事をしている人の数や、障害者をどの位雇っているのか、上井草園の経営をしている社会福祉法人に聞いて欲しいと頼んだ所、障害者は一人も雇っていないことが判った。そして一人は雇わなければならないことも判った。そして、僕を2006年4月から非常勤介護職員として雇うことになり、勤務も週5日になった。
仕事も特養ホームに移った。
僕のハードな一週間
2月11日月曜日。馬鳥さんのお見舞いの為有休をとった。火曜日は欠席した分のシーツ交換をフルスピードでやった。特に月曜日にシーツ交換をする方は気難しい人が多く、色々と注文が出る。
僕が来る前に「ちょっと待って」と言って自分の使っているベッドを片付け始める人もいる。そんな時は待ち時間で仕事の時間を奪われそうな恐怖を感じる。
月曜日の分を済ませて、火曜日の分をやり始めたのでかなりハードだった。いくら頑張ってもなかなか終わらないという事が続いてしまった。そこに僕に追い討ちをかけたのがいつも洗濯室で一緒に仕事をしている人が大腿骨骨折でしばらく休むということだった。
洗濯機と乾燥機の操作は教えてもらっていないので、午前中他のスタッフにやってもらい、僕はシーツ交換をして、午後に仕上がった洗濯物の畳みに行った。
その為、シーツ交換はいつもの二倍のスピードを出してやった。二人でシーツ交換をする施設もあるのだが、僕が仕事をしている上井草園では一人でやるケースが多い。初めはそれだけ信用されているんだと嬉しかったが、一日の時間内に全ての仕事の量を終えるとなると大変だった。仕事をやっていくにつれて、信頼の重荷に潰されるのではないかという錯覚に何度も襲われた。
洗濯室が動いていないと、入所者(職場では利用者さんと言っている)の着ている物、また僕がシーツ交換で交換している横シーツ、浴室、医務室のタオルなど、全て洗濯するとすぐ机の上に洗濯物の山脈が出来る。もしその洗濯物が戻って来なくなると、出した所では在庫不足などの大事件が起きてしまう。僕もシーツ交換をしている時には、よくその様なことが起きて、わざわざ洗濯室にもらいに行ったことが1度や2度ではない。洗濯室が動かなくなるという事は上井草園では一大事なのだ。人体に例えれば心筋梗塞や大動脈瘤(破裂)、JR線に例えれば中央線、総武線、山手線全線が1度に長時間動かなくなってしまう位の出来事だ。
最初の頃はシーツ交換の後に、出来上がった洗濯物をたたんだり、配ったりする作業が間に合っていたのだが、何回かやっていくうちに疲労が出てきたのか、作業スピードが失速していくように感じた。体に重りがついてしまった感じがした。けれどそんな事は信じたくなかった。上司も気づいたのか、火、水と洗濯室に来る人をピンチヒッターとして呼んでくれた。
不安だったのは僕が教わったやり方とやり方が違うことが結構あることだ。そんなときは違和感を強く感じた。他にも乾燥機の掃除の時も、ほこりが沢山たまっているのを箸でつまんでゴミ箱に捨ててから細かいゴミを掃除機でとっているのだが、その人は最初から掃除機を使うのだった。
その掃除機は見た感じ家庭用だ。その様な使い方をするのは掃除機としてみれば何の練習もしてない一般人にパリ・ダカのコースをマラソンで走れという位、酷な事に思えてならない。何度か壊れたという話を聞いたこともある。当然だ。
「来てくれて助かったよ」と洗濯室の新パートナーには言われたが、お互いのちぐはぐした動きに金曜日には僕の肩と腰が悲鳴をあげた。自分の動きなど見て、本当に助かったのか、実感がわかなかった。
2月第3週の僕の仕事ぶりです。