月例会などの最新情報はこちらからご確認ください

会報112号(2025.4.5)

人権ネットワーク活動記録

  • 2024年12月21日 クリスマス会
  • 2025年1月18日おしゃべりの会
  • 2025年2月14日月例会ZOOM会議・中央通り法律事務所
  • 2025年3月15日月例会・おしゃべりの会
     合理的配慮についての資料発送作業

これからの行事予定

  • 2025年4月5日会報発送作業
     午後1時から中央通り法律事務所
  • 2025年4月11日 月例会(ZOOM会議)
  • 2025年5月31日(土)13時から定時総会
     14時30分から講演会
     Ⅿさんなど、裁判の当事者の方の裁判報告
     17時から懇親会会費4000円程度
  • 6月21日(土)12時集合会報発送作業
     14時からおしゃべりの会+月例会
     中央通り法律事務所

以後の月例会・おしゃべりの会、行事については、総会時に決定し、6月発行の会報(総会報告号)でお知らせします。

原稿・情報をお寄せください。
どんな内容の原稿でも結構です。いただけるとありがたいです。ご協力お願いいたします。

年会費の納入、カンパをどうぞよろしくお願いいたします。
会費未納の方はご送金よろしくお願いいたします。

令和7年定時総会・講演会のお知らせ

急に暖かくなり、花々が一斉に咲き始めました。皆さまいかがお過ごしですか。
定時総会を下記の日時で行います。ご出席くださるようお願いいたします。
総会のあとはMさんの講演会を予定しています。東京高等裁判所で勝訴判決を得た裁判、現在千葉地裁松戸支部に係属中の裁判についてお話を伺います。2時過ぎから4時30分までを予定しています。
終了した裁判、現在係属中の裁判、裁判を経験された方でお話してもよいという方は事務局までご連絡ください。
講演会終了後5時から懇親会を予定しています。
ご出席いただける方は5月23日までに事務局小野宛ご連絡ください。

【定時総会のお知らせ】
日時:令和7年5月31日(土)午後1時から14時20分
内容:令和6年度活動報告・会計報告
 令和7年度活動計画・予算案

【講演会のお知らせ】
日時:令和7年5月31日(土)午後1時から4時30分から
お話し:Mさん
テーマ本人訴訟―それでも私はやる!!-
・障害と就労支援と合理的配慮
・指導と虐待、助言と暴言
・障害者雇用における労働災害

やさしい旅の会のご案内・そなエリアのご紹介

会員の松尾和幸さんから、SL日帰り旅行の案内をいただきました。
4月19日(土)35名が最小遂行人員だそうです。
人権ネットワーク独自の旅行はなかなか企画できないので、こういったはとバス旅行のようなものに乗るのもいいですね。日程が迫っていますが、SLに乗れるのは楽しそうです。チラシを同封します。
ご検討ください。


やさしい旅の会のご案内

お疲れ様です。
これが、「2024(令和6)年度最後のメール」となります。
先日、「障ガイ者」向け・ボランティア団体「やさしい旅の会」から、「日帰り旅行」の案内が届いたので、「人権NW」のみなさんにも伝えたいと思います。

明日から新年度(2025<R07>年度)を迎えますが、よろしくお願いします。

そなエリアのご紹介

今月上旬に、町内会主催の行事があり、「そなエリア」という施設に行ってきました(詳細は、「東京臨海広域防災公園」に掲載されています)。ここでは、「地震発生から丸3日間を、どうやって生き延びるか」をテーマにした「ツアー形式の見学」が行われました。

北陸や東北でも、地震に続いて、豪雨や山火事といった「二重被災」が問題になっています。
このあと、「豊洲市場」と「羽田空港」を見学し、夕方になってから、「すべての日程」が終了しました。
私のような「障害(障がい・障ガイ)当事者」にとって、「防災対策」を考えるきっかけになったと感じています。
今後も、よろしくお願いします。

窪田先生近況・ちょっと前の物語

小野様窪田です。
電話に気づきませんでした。すみません。
お母さん お義母さん それに 清水先生如何お過ごしでしょうか。お元気でしょうか
さて、声が出にくくなって久しくなりますが、左耳がほとんど聞こえないことに気づきました。
昨年からは指の震えが止まりません。便秘も頑固になりました。
もちろん、病院で診てもらいました。回復は望めません。

かように神様は私の身体を少しずつ壊しております。どんどん加速しております。
今は身辺を整理しております。

以下に 小野さんの名、清水先生の名,船木さんの名がありました。
貼り付けました。

【ちょっと前の昔物語】【ここは銀座、うちの裏山のカラスがこんなところに】
清水弁護士さんとの思い出…銀座の巻(その1)

驚いたことに、銀座でもカラスが鳴いていました。

飛行機は昼前に羽田着。自宅から羽田までは単独。
モノレールで浜松町へ。

事務所の依頼で、誘導をお願いしていただいた船木さんは穏やかに語るのでした。
「ここ東京にきて30年経つのに、夢に出るのは通い慣れたふるさとの神戸の町です。不思議ですねえ」
 台湾で亡くなった私の兄と同じ昭和一八年の生まれといいます。生きていたら、こんな兄さんだったろうなあと船木さんの話を聞いておりました。

穏やかな口調、シャキッとのびた背筋に、
「若いころ何かスポーツをなさっていましたか?」
「はい バスケットボールです」
県立神戸高校に通っていた、と。清水弁護士さんとは同期生。
羽田から有楽町駅まで気になる背後のおしゃべりがありました。それに間断なく続く話し声、口調も早いのです。
「もしかして?」
「そうです。中国の人たちです」

ニュースで聞いてはいたが、まさかなあ、肩が触れるほどではないが、祭りみたい。

《雨あがり 里のカラスの 訛りする ここは銀座の 歌舞伎座の空》

「ビルに入ります」で人声は消えました。
ここは近畿建物銀座ビル、このビルと道路をはさんで松坂屋デパートだったかな。チョコレート会社を数人で共動経営していた伯父の家で過ごしていた母はこの松坂屋の足袋を愛用していたといいます。つまり、行き交う女性の多くは和装の姿だったのでしょう。戦前の時代です。

ええと背後はみゆき通りだったげな。歌舞伎座もあっただよ。
母の遺した詩集には「銀ブラ」の語があるのだよね …、姉二人も銀座のどこを歩いたのだろう。昔の古い足跡がひょっとして残っているかもしれん。あればなあ。
しばらくして、夕食にと銀座の街へ。徒歩で向かいます。誘導する事務局長の小野さんも女子剣道二段だったというだけに背筋がシャキッと伸びています。

込み合った歩道では誰かの肩と触れました。あのシャネルのビル前を通過、傍らの路上ではバスのエンジン音があちこちで響いています。買い物を終えるのを待っているのでしょう。人声すべてが中国語、と察しました。彼等の買い物熱が冷めたら、日本経済はちょっと下降するのでしょうね。そうラジオが言うてた…。

小野さんはジグザグに人垣をかき分けて進みます。う~ん、聞いていた報道以上の混雑です。

建物に入ると急に静寂に包まれました。靴音はやや深い絨毯で聞こえません。一体何人の人が招待されているのだろう… 
「何でも注文してください。ビールでもワインでも、はい焼酎でも」
と、清水弁護士さん。わからなくてぼんやりしてると、傍らではどんどん注文していきます。
支配人が
「白ワインをさらに吟醸したワインがあります。辛いのですがいかがですか?」
本当に辛かった。ブランデーじゃないの?
うまいスープに
「このスープ、うまいですね」
「ええ フカヒレです」
「へえ これがあのフカヒレなの?」
手前の皿には、エビチリみたいだけど? でも エビが大きい。
「えっ? 酒に砂糖を入れるかって?」
清水弁護士さんが向こうで言っています。
なぜ、砂糖を?
小野さんが耳うちしました。
「ここ、銀座五丁目にあるローランです。中華店です。清水弁護士はここで昼食をとるのですよ」
住んでいる世界が違うなあ。

翌朝。フロントから内線。荷物を背負って部屋を出ました。エレベーターに乗り込んで、「おはようございます!」…誰もいないみたいで反応がありません。ボタンを探って押しました。

すると「??」 人の声です。挨拶したのに?反応もなかったのに?
一瞬、困惑。

私はボタンをとんでもないところを押したみたいです。それで先客が戸惑ったのでしょう。小声で…と交わしております。
改まって「一階!」と私は言うたけど。
わからなかったかな?もしかして、外国人?
人差し指を一本立てました。
「ファースト フロア 」
うまくいくかな?こんなとき、theがいるんだったっけ?どうでもいいや …いや、モタモタしてる場合かいな
やや遅れて
「おう!」だったか?「??」
若い女性の声が反応しました。少なくとも二人はいます。ボタンを押してくれた気配がしました。
「ありがとうね」
とかけると、一瞬 沈黙…。
そして、「ああ おお」のどっちだったか、感謝の言葉だとわかってくれたみたいで、大きな歓声があがりました。間髪入れずに「中国の人?」
薩摩訛りがたたみかけます。
一オクターブ上がった
「そうよ!」
と言ったような若いお嬢さんの声が返ってきました。エレベーターが開いた音がする
とまたまた、どこかの言葉 「ドアが開いたよ」とでも言ったのかな。
背後を振り返って、また「ありがとう!」と礼を言ったら、またも数人の声の嬉しそうな返答です。
何だか、人数が増えてる?

中国の人だと断定はできないけど、そう判断しました。
ブロークンな英語でもよかったげな 

カウンターに辿り着いて、安堵… … 小野さんが待っていました。
ああ疲れたあ
単語ひとつでやりとりはできたのであります。ホテルからタクシーは京橋区民館へ。

当時のホテルの名は「キャピタルホテル新館」 新富町だったのかな 
地下鉄駅は「東銀座」

ストレス社会・こんなことから

ストレス社会
こんなことを、考えただろうか。
赤ちゃんは、何気なくではなく、この世に、生を受けて生まれてくる。おぎゃあと泣くのはこの世に生まれてきたよ。とどこの家で生まれたのか。確認のために泣くのだろう。赤ちゃんは、ちやほやされると、にこやかに、なる。それまでは、生まれるまでがストレスなのだと思う。会社の社長でも、警察官にしても、政治家や天皇陛下でもそうだと思う。あと、私も、そんなひとり。

ほっぺが赤く、にこやかな顔をつくる、なんともギュッと抱きしめたくなるような、どこか懐かしさはある、ような。でも、皆さん、その子ははじめましての赤ちゃんなんですよ。

でも、赤ちゃんと、大人では、ストレスが違いすぎませんか。大人は、みなさん、不機嫌になれば、いらだちがあり、常に、誰かになだめてもらう、とか。赤ちゃんが、きりひらく、新時代は、AI、エーアイよりも、先に時代の変化として、動いてます。
ですから、聖徳太子みたいになろうとか、豊臣秀吉みたいに、なろうとかに、なりたい、と思わなくても、もとは、私達と、同じなのです。おひゃくしょうさんとして育ったのに、信長に、気に入られて、サルと言われながら、偉くなった、秀吉。ではありますが、皆さんは、だれに、そして、何を、気に入り、誰に、気に入られますか。
なんですって、私は、自分で、自分に、気に入られたいです。

余談ですが、私は、ゲームが大好きです。
ストリートファイター6というゲームをよく、プレイステーション5でやりますが、このゲームにいたるまでは、制作会社である、カプコンと言う会社が、手がけてますが、何を、意味をするゲームかと言いますと、プレイする側がキャラクターを通じ、使用していきながら、カスタマイズをし、自作キャラクターが作れる。
勝ち、負けの、ハンデがありながらも、しっかりと師匠である、オリジナルキャラクターと、絆を深め、ストレスをなくす。新たなる発見へと誘ってくれる全く新しいゲームとなります。目が不自由でも、出来るゲームに、仕上がっているとか。社会性を有効活用したカプコンに、勝利の、トロフィーをあげたいくらいです。

さてみなさん、疲れて帰るか、楽しく仕事をして、帰るか。そこは、いまだにないゴールであることに。だから、今、社会性の、ストレスと、この身が果てるまでが闘いなのです。
社会の、何かを背負う。いいえ背負わないでください。
闘いの先に答えはある。ストリートファイターの、リュウと言う、キャラクターがよく言いますが、まさに、その通りで、生きている限りそうだと、思います。

こんなことから
まさか、なんて事はありませんか。実は、そのまさかがあり得ることがあります。
例えば、緊急入院や、突然死などありとあらゆる、場面があります。
これが、こんなことからに、つながるのではないでしょうか。
こんなことは、大したことはない。いいえ、そんなこと、ほっときなさい。など。例えば、病院に、行って、出勤して構わないよ。を聞かないで、身勝手に、出勤をしたとしましょう。医師からすれば、自分の存在を無視をされ、あんたなんかに頼らなくても大丈夫なんだよ。意識に摩り替えられてしまい、次からは、キチンと診察をしてくださらない事も覚悟をしながら、行動をしましょう。

こんなことからとは、様々あり、こんなことで?いちいち呼ばないでよ。も中には含むこともあります。皆さんの、こんなことはなんですか。安易に人を評価をし、おまえは、こんなこともできないのか。はやめましょう。
要するに批判をすれば、逆にあなたのところへやってきますよ。批判の声や暴言は何ひとつ、いいことがないですから。

父、母のこと

母は元気に過ごしてくれている。外向きには母の施設はインフルエンザ、コロナのため面会禁止になっているが、面会に行く家族がコロナ後めっきり減ったためか、それでも頑張って面会を求める我が家は相変わらず玄関先だが15分間会わせてもらえる。リモート面会もあるが、93歳、うとうとしている時間が長い母にはちょうど面会にいい時間というのがない。一瞬でも会えれば、元気にしていることがこの目で確認でき安心していられる。隔週で会う私たちに、15分ではとても、怒ったり、笑ったりをても全部引き出せないが、会えるだけいい。大石先生に伺うと、川崎あたりでは面会時間も長く、制限の少ない施設がたくさんあるという。本当は面会が自由にできる、長時間できる、そんな施設に入っていてもらうのが一番なのだが、母は人見知りがひどい。慣れるまでにものすごい時間がかかる。まるまる三年間過ごした今の施設を変えることは母には負担だと思う。母がいやすい場所で過ごしてもらうのが一番いいのだろう。

そんなふうに思っていたところに、施設から手紙が届いた。その内容は、超高齢施設となり、医療従事者が常駐しないこの施設では30人の利用者のほとんどが85歳を過ぎているので、いつ訪れるかもしれないいざというときの対応の困難さを抱えながら運営してきた。この度、経営を委ねるにふさわしい施設経営者とマッチングできたので、医療従事者をスタッフに抱える施設経営者にこの5月に営業譲渡する、という内容だった。急激な体制の変化はないというあたりで、受け容れざるを得ないのだろうと思う。医療スタッフがいてくれるという強みがあるので、面会制限がもう少し緩くなるといいと思っていると今の施設責任者が話してくれた。残り少ない母との時間、少しでも良い方向にいくように祈るばかりだ。

主人の母は今我が家にいるが、私と同時期に風邪をひき、咳がなかなか止まらなかった。体調不良のまま10日くらいを過ごすうちに、食欲が衰え、体の動きがめっきり緩慢に、不安定になってきた。私が帰宅すると、ベッドの布団がずり落ちた上に倒れこみ、しばらく動けないままでいたらしい。これをきっかけに、やっと介護保険を使えるようにしようということになった。包括支援センターの人も「95歳ですか。猶予がないです。すぐに手続します」と言ってくださり、まず母の住所を高島平に移した。その次は池上のかかりつけ医の紹介状をもって近くの内科で受診し、高島平でかかりつけ医となるところを確保してください、それができたらすぐに包括支援センターに連絡ください、という段取りになった。内科受診も終わり、包括支援センターの人が介護保険の書類を作成中で、ここ1週間くらいのうちに面談に来てくれることになっている。
と思っていたところに、包括の人から連絡があり、義母の流山での介護認定が期限切れになっているため、手続きが煩瑣になり、時間を短縮することができなくなるとのことだった。あちらもこちらもうまくいかないが、仕方ない。

なぜ、もっと早く介護保険の申請をしなかったかというと、息子として母の面倒を見るのは俺だと強く思いすぎてしまった主人の考えを誰も変えることができなかったという事情がある。私も自分の母の時にはそうだったと親しい人に言われたが、「母は大丈夫。なんでもないんだから」と思いたい。「よく話せばわかるんだから。だから大丈夫なんだよ。」介護保険使わなくたって何とかなるんだ。そうだった。そう思いたかった。
子どもの不要なエゴから逃れ、やっと義母は少しでも楽に過ごせる工夫ができるようになる。よかったと思う。やっとだ。

私の娘や息子は私の母に会いに行ってくれたり、義母の様子を見てくれたりと、とても気遣ってくれる。ありがたい。
娘はお休みの日に、「おばあちゃんがいる部屋を片付けようよ」と群馬からやってきてくれた。おばあちゃんが楽に動けるようにしておかないとね、と言ってだ。

義母のいる部屋にはもう何十年も前の私たちの若かりし頃の思い出の衣類がたくさんあった。最初は、「お母さん、どんなに頑張っても、絶対、もう着れない服だよ」と言われるたびに「そんなことない。これから痩せるから」と抗っていたが、一度、「洋服捨てたくない栓」が外れると、どんどん捨てられる。「こんなもんなんだね。もっと早くやればよかったね」と反省。それでも母が混乱したらかわいそうだからと物の位置など大枠は変えず、出入りに支障がないよう片付けた。孫だと遠慮なくお風呂の手伝いをしてもらったり、着替えの手伝いをしてもらったりしている。
ここ数日の母は、少し元気が出てきた。食欲はまだ以前のようには戻らないが「100まで生きる」という母の思いに少しだけでも手助けできればと思う。

義父は30年も前に亡くなっている。私の存在感がまだまだ発揮できない若いときだったから、あまり深い思い出はない。ただ、私たち夫婦のことを「親のことよりも自分たちを大切にしなさい」と言ってくれた、ダンディーでかっこいい人だった。その父は誰よりも義母を大事にしていた。

2月7日は父の命日だった。このところの乾燥で山火事のニューが何回もあった。山火事や事故や火事で人が焼け死ぬニュースは父のことが思い出されて胸が痛い。
父が亡くなって丸4年になる。「おれがお母さんの面倒見るから」と何度も言っていた。89歳だった。「もう畑仕事も大変だから、家にいて、俺が面倒みる。」父は有言実行の人だ。生きていたらきっとそうした。口うるさい父も母のことをとても大切に思っていた。出かけても、母が家に一人だからと遠方の親せきの家に泊まらず、夜遅くとも帰宅する人だった。

やりっぱなしだったが、料理は良くした。父はチャレンジャーで、おいしい物を外で食べてきたときには必ず自分でも同じようなものを作って私たちに食べさせてくれた。88歳の手習いくらいな感じで洗濯もした。干すのはぐちゃぐちゃだったけど、できていた。そう、父が生きていれば、私や娘も手伝って、母は家で過ごせていたんだろうなと今でも残念に思う。

父はいろんな役員をしていたので、旅行に行く機会が多かった。行くたびにブローチ、スカーフ、バッグ、子供のおもちゃ、母や子供、孫たちに必ずお土産を見つけてきてくれた。けっしてブランド品や高いものではないけれど、一人ひとりに何かしら必ずお土産を買ってきてくれる人だった。お土産を買うのに夢中で、観光バスに置いて行かれたことがあったらしい。「で、どうしたの?」「うん。バスが迎えに来てくれたよ」何事もなかったように言っていた。

私と上野駅で待ち合わせたとき、運悪く父は携帯を忘れてきてしまっていた。会えない、会えない、会えない。構内放送をしてもらったが会えない。もう高島平に行っているのかもしれないと思って途中まで帰ったが、上野駅に戻ると、いた。父が待ちくたびれた様子も見せずに、絶対迎えに来る私を信じて、降りたホームでずっと待っていてくれた。あの時はなぜ会えなかったんだろう。

父も母も中学が制度として始まる端境期だった時代に生きていたので、学歴としては高等小学校卒業だった。高等小学校を卒業すると、県立高校に行けたらしかった。父がよく「高校に行っておけばよかったな」と言っていた。父も母も子供には勉強させようと三人の子供を大学まで出してくれたが、ダメダメな三人の子供はだれも大した大学には行けず、自慢の子供にはなれなかった。

威厳のある親ではなかった。男の価値が落ちると実母にいわれるほど、子煩悩だった。子供の自主性に任せていた。うるさいことは一切言わなかった。困ったときだけ手助けしてくれた。しつけもうるさく言われたことはなかった。ただ、お箸の持ち方は三人ともきれいだ。小さなことだけれど、大切なことだったと今更ながら感じる。

父も母も困った人をほおっておけない人だったなとも思う。馬鹿がつくほど正直で曲がったことが嫌いだった。
私は、この父と、この母から生まれたんだ。
こんなどうでもいいことばかりが浮かんできた。

馬鹿で思い出したことがある。先日娘が前橋の朝市に誘ってくれた。なんだかわけがわからないまま長い列に並んでから「なんの列ですか?」と聞くと、「卵100円です」などなど、安くて楽しかった。ついでにお肉屋さんの朝市にも行った。たしかにいいものが安かった。そこで娘が「これ、なんのお肉かな?馬、鹿ってあるね」「えっ?馬鹿安い!」でしょう。やっぱり、私の娘だった。

月例会・クリスマス会等の報告

12月21日のクリスマス会には、名古屋から渡辺さんが参加してくださいました。
たくさんのお土産もいただきました。ありがとうございました。差し入れをいただき、ありがとうございました。池亀さん、菊池さん、息子さんのたかちゃん、ご参加ありがとうございました。久々に賑やかなクリスマス会になりました。

3月のおしゃべりの会は、3月生まれの方が3名もいたので、ちょっとしたお誕生会のようになりました。おいなりさんとチーズケーキでお誕生日のお祝い会でした。3月のおしゃべりの会の日に会報発行作業をする予定でしたが、事務局の小野が忙しく、会報準備ができず、発行できず申し訳ありませんでした。

令和6年度の行事には、久々に参加してくださる方が何人もいらして、とても嬉しかったです。いつ参加しても落ち着ける場所、自由に言いたいことが言える場所づくりのために今後も努力します。ありがとうございました。それから、石川さんにたくさんのご寄付をいただきました。毎年のことです。会費が支払えない方にも参加していただきたいとのお気持ちもあります。本当にありがとうございます。

2度も講演会、学習会の講師を務めてくださった上出先生、ありがとうございました。
オウム真理教事件から30年の節目の年でもあります。麻原の弁護をされたのが上出先生で、麻原と一番話をしたともおっしゃっていました。是非、お話をお聴きしたいとの希望がたくさんあります。総会の時に検討したいと思います。

今年こそ、はとバス旅行、遊覧船に乗る、水族館に行く、動物園に行く、などなどどこかに行きましょうという希望があります。このことも総会時に検討できたらと思います。

年賀状をくださった皆様、ありがとうございました。近況をお聴きすることが出来、嬉しく拝見させていただきました。

<本のご紹介>
昨年クリスマス会に参加してくださった渡辺さんからお便りをいただきその中で、講談社から出版されている「逆転!」マルコム・グッドウェル著をご紹介いただきました。著者はイリノイ州生まれ、識字障害をもっていますが、識字障害に勝る能力を発揮し、弁護士として活躍しています。興味のある方は是非読んでみてください。