あれから15年

窪田 巧

あの頃は誰もが若かった。
宮崎 福岡 京都 筑波へと神出鬼没の清水弁護士さんが50代最後の歳、厳密には仮処分が57で和解成立のときが59だった。私は51。
厚労省の就業規則モデルの不備を見つけ、そこから相手方の一角を突き崩すきっかけを作った桑木さんが30代。
連日の深夜まで、弁護士さんの難解な文字をパソコンに打ち続けた小野さんは幾つだったのだろう?
御大の三宅先生は70過ぎだったか?
「校長に言い返さなかったのか!黙っていたのか!それでも男か!」
この御大はオタオタしている私をいつまでも電話で怒鳴っていた。その御大の背中をどついたのは奥さんだったとあとで聞いたなあ…
「ざまあ見やがれ!」なんて下品なことは、育ちのよい私は言わなかったけど。

そして 数日後の正午
地裁に乗り込む前に昼食をとった。
無茶な三人衆:清水、竹下、東の弁護士さん以外は美人の女性弁護士さん二人。
「さあ闘いだ 気合を入れるぞ!」
一瞬にして御大と三人衆の周りではビール瓶が大量に転がった。
「かわいそうに、竹下さんが連れてきた司法修習生のお兄さんはダウンして横になっているんだとよ」
誰かがそっと耳打ちした。やっぱり無茶な三人衆だった。

騒がしいな 何かあったの?
「あのな トイレでベルトのバックルを落としてそのまま流したとか言うとる。
そんで店にあった紐でベルト替わりしとるけど、ズルッとずれるもんで左手でズボンつかんでるけどなあ。あんで銀座の弁護士やっとるというのはホントか?アハハハ 」
今から裁判やって 終わったら記者会見もあるけど、どこまでもやはり無茶の三人衆でありました。

初めて踏み入れた地裁内はひんやりしていたなあ。
東京から赴任してきたばかりの若き女性裁判官は
「清水先生のお名前は存じております。はい 竹下先生も」
地裁の初顔合わせでこちら側は一歩も二歩も押し込んでいたっけ。
このときは痛快だった。さらに審議は進んで、清水弁護士さんは裁判官に向かってこう言い放った。
「あなた そんな考えでは時代に乗り遅れますよ!」
負けじと裁判官も
「いいですよ!」
ほんの短い時間だったけど厳しい応酬だったなあ。
のちにどうした訳かベテラン裁判官に代わり、このベテラン裁判官は私に幾度となく念押しを始めた。あわてた清水弁護士さん、
「清水は私です!」
あははは 数分だけ私は敏腕弁護士に成り代わっていたわい。
こんなこともあってか仮処分申請はすんなりと勝訴してしもうた。

三人目の裁判官は検証授業のビデオを見たあとで
「後に続く人のために頑張ってください」
と言いつつ、経営者側に教壇復帰を促す和解を強く勧告した。
まさかなあ 勝てたなんて!
みなさんからの支援や葉書運動は私にとってはナイト(救世主)でありました。
おかげさまで私は元の居場所に戻していただいた。しばらくして、清水弁護士さんから電話があって、
「あの裁判官、板書を『いたがき』と言っていましたね」

あれから15年
我が家に福をもたらしたあのノラは私の定年を待たずに先に逝ってしもうた。
私はと言えば家にこもりっきりのためか足腰が弱くなってすっかりおじいちゃんモード
誰かが言うてたなあ
「おじいさん 昔なにやってたの?」って
「このじいさんはね 昔おじさんやっていたよ とても元気なおじさんだった」

浦島太郎となった今、差別解消法も施行されたというのにまた同じ事件が繰り返されている。裁判は身内と思っていた仲間からも背後から足元をすくわれるからつらい。そして難しい。
まあ これも私の人徳のなさからくる自業自得なんだろうけど。それでも前進あるのみ。
そのうちに、間違いなくあなただけのナイトは現れるでしょう。私のときはこうだった。
8月のあの暑い日の電車の窓際で 頭をもたれてしょぼくれていた私の頬に
突然、冷えたビール缶が押し当てられた。
ワッ!
茶目っ気たっぷりのさわやかな口調のこの人は
「東京の清水です」
はい。ビールのナイトだったのです。
あなたの目前に現れるナイトも様々でありましょう。
みんなを信じて進むしかない。