6月18日(土)の朝、新聞の一面を見て気になったのは「裁判員声かけ 元組員らを逮捕 福岡県警 威迫容疑」の記事だった。普段は裁判はニュースなどで聞く位だ。もし裁判が身におきるとすれば遺産相続で、もめる位かもしれない。でもそれはいつもあるわけではない。裁判員となるとより難しい判断を求められてしまう。
裁判員というやり方で「一般の声を聞き入れる」ということは大事だと思う。もし選ばれた裁判員が極端に「人を殺しているのだから死刑よ!」と主張したらどうなるのだろう。杉並区障害者雇用支援事業団にいた時、昼のニュースを見て実際にそう言っていた協力員の人がいて違和感を感じた事があった。テレビドラマ『相棒』で裁判員をテーマにした話の時もそのような極端な判断をするキャラクターがいた。刑を決めた後に「犯人は別の人だった」という事もありうる。そういえばニュースで「○○容疑者」「○○被告」「○○受刑者」とわざわざ分けていう意味の中に「場合によってはこの人は無罪かもしれません。そういうことも視野に入れてニュースを見て下さい」という意味も含まれているのではないかと思った。現に松本サリン事件の時、第一通報者の人が犯人と疑われたが、その後無罪と言う事が分かった。このような事もあるので報道に対しても少し疑いながらみている。
裁判とは刑を決める所でもあるが、それと同時にその事件で一体何があったかを明らかにする場ではないかと思った。そのために数々の証言や証拠が必要になってくる。ただ「これが証拠です」と言っても相手が理解しなければ意味がない。証拠、理由、説明、意味、答え、これらは相手や第三者が納得して初めて成立する。「証拠を出せ」と言っている人は単純に言うと「今の段階では信用できない」「信用できる基準となる物を出せ」と言っているのではないかと思った。裁判の証拠、証言は大事だが、日常生活でも求められる事もある。だが裁判の判決は民事、刑事問わず人の人生を左右させてしまう。それを判断させる裁判員に公判を終えて出て来た所を「あんたら裁判員やろ。顔覚えとるけんね。よろしくね」と声をかけたと言う事件は許せない。裁判には判決が出た後に上級の裁判所に訴える事も出来るはずだ。更に再審という制度もある。確かにお金や時間はかかる。だからと言って裁判員に被告を有利にしたり不利にする様な言動は良くないと思う。まずはその事件で何があったか表に出し、その下でその人の刑の有無、重さを決めるのが裁判だ。まずは判決を待ち、判決を受け止めるか、上級の裁判所に訴えるか、それはその裁判にかかわった人が決める事だと思う。その上で何が正しいのか、生きていくのにどうあったらいいのかが大事だと思う。特定の人にとって都合のよい判決が出るように誘導する行動はやってはいけない。