会報91号(2019.5.1)

一昨年あたりから図々しくカンパのお願いをしています。お役にたつことがあまり出来ていない現状を反省しつつ、会費やカンパを納入くださった皆様に感謝しています。とにかく継続、です。

今年は大雨の影響で何度もヒヤリとしました。皆さまお住まいの地域はいかがでしたか。安らかな日常が誰にでもあたりまえに訪れる日が多いことを心から願わずにいられません。

何か不自由なこと、不合理なこと、話してみたいことなどなどありましたら、事務局体制は不備だらけですが、気楽にご連絡ください。

10月26日にハンセン病資料館見学と森元美代治さんにお話を伺える時間をとっていただけました。参加者は12名。久々にネットワークで外にでました。また是非新たな企画をしたいと思います。ご希望があればそれも是非ご連絡ください。

今年最後の行事は12月14日のクリスマス会です。中央通り法律事務所で行います。沢山の方のご参加をおまちしています。

多摩全生園を見学して

障害児者人権ネットワークの会員十数名が、行事の一環として多摩全生園を訪問しました。
私の感想は二つありました。

一つは、資料展示館で見聞きした全生園への収容政策を、国家が誤っていることが分かった後でも改めなかった歴史です。
この政策を生んだ学者先生の責任は大きいと思いました。と同時に、過ちが判明してもなかなか軌道修正ができなかった、この国の在り方はほかにもいろいろ例があることを強く思い起こされました。

二つは、この見学のハイライトのもう一つの元患者の森元美代治様のお話でした。淡々とした語り口は、長い闘争を経験した後の崇高ともいえる穏やかな表情と併せて、まったく驚異でした。
現在、家族の方々への補償が検討されていることは、長い人権無視の中で生きてきた方々への当然の償いであり、よく勝ち取ったことと称賛します。

展示資料や、納骨堂などの施設をサーッと見ただけで簡単に感想など言えないくらいの衝撃ですが、世の中にはこうして目に見えないところで人権無視や虐待などが行われていないか、敏感なアンテナを持っていなければならないと強く思いました。

ハンセン病資料館見学 と 森元さんのお話しを聞いて

西部池袋線清瀬駅南口から西武バス久米川駅北口行に10分程乗車したところに「ハンセン病資料館前」のバス停があります。広大な敷地の色づき始めた木立の奥に見える白い建物がハンセン病の資料館でした。1階が映像ホール、ギャラリー、研修室。2階が図書室、展示室1~3及び企画展示室です。

この日は木村哲也学芸員によるミュージアムトーク「ハンセン病療養所の詩人たち~大江満雄との交流を中心に~」を聞いたほか映像ホールで上映していた患者さんの訴え、展示室で見た「らい療養所」の様子、患者の懲罰施設として使用された「特別病室」-「重監房」など、全てが衝撃的でした。

誰もが望んで病気にかかったわけではないのです。しかし、体の一部が変形したりする外観の特徴などから住んでいた場所を追われ、仕事を失い、放浪する多くの患者さんが施設に収容されました。松本清張原作の映画「砂の器」で見た通りです。その後、自宅で療養する患者さんも施設に収容されるようになりました。おかしな話です。そして昭和6年(1931年)に全ての患者の隔離を目指した「らい予防法」が成立しました。
施設に収容されると所持金は全て没収されて施設内でしか使用できないお金に換金されました。1円が同じ価値で換金されたかは不明だそうです。通帳らしきものも作られていなかったようです。療養所の所長は何故か元警察署長。療養所の処遇に不満を漏らしたり逃亡すれば監禁所―重監房に入れられました。ハンセン病の患者さんは犯罪者ではありません。病人です。療養所の展示では一部屋に何人もの患者さんが一緒に暮らしていました。3年前に見学した障がい者施設に似ていると思いました。資料館は静かで整然としていましたがこの静けさが何とも重く、鬱屈した物言わぬ空気が何かを訴えてくる感じがありました。それは多摩全生園全体を覆っていて、納骨堂付近はお香の臭いが染みついており日が暮れて真っ暗になってもそこが納骨堂であるとわかりました。

展示室では「音声ガイド」がないため視覚障害の方には不便です。受付にその旨申し出ましたら視覚障害の方の来館が少なかったため音声ガイドを「今、充電しています。」ということでした。
資料館を出て少し歩くと「お食事処 なごみ」があります。
映画「あん」で市原悦子さんが使用していた小道具類が展示してあり、永瀬正敏扮するどら焼き屋の「塩どら焼き」も売っていました。その場所で特定非営利活動法人IDEAジャパン理事長である森元美代治さんがお連れ合いの美恵子さんに車椅子を押されて私たちの所に来てくださいました。
森元さんは鹿児島県奄美大島 喜界島生まれ。1952年、中学3年の時にハンセン病と診断されて国立奄美和光園に隔離されました。少年時代は虐められたそうです。その悔しさから上京して大学を卒業し一時は都内の金融機関に就職しました。しかしご自身がハンセン病の患者だったことを公表することはできなかったそうです。
病気が再発して全生園に再入園してから主治医による過量の投薬と激痛によって右目は失明し左目は弱視、足も不自由になりました。インフォームドコンセントなどなかった時代です。ハンセン病の患者さんたちは「天刑」だとか「仏罰」だとか言われていたそうです。
平成8年(1996年)に「らい予防法」が廃止され、これを機に実名を出して本格的に講演活動に取り組み、「証言・日本人の過ち」-ハンセン病を生きて-という本を出版しますがこれに対して兄弟や親戚の一部の人から「これ以上家族を苦しめるな」との抵抗があったそうです。

凄い人生です。誰を何をよすがとして病んだ身体を携えて暮らしていったらいいのかと途方にくれた人もいたでしょう。人の世話にならなければ生きていけない自分でありながらやはり納得のいかないものは納得できないという「人」しての誇り…。自暴自棄になってしまう人や自ら命を絶つ人も見てこられたといいます。「絶望」なんて言葉は森元さんを前にしたら軽々しくは使えない気がします。森元さんが背負われてきたものの重さと長さを感じながらもあの不思議な明るさは何処からくるのだろうか、自暴自棄になる人とならない人の違いはどこにあるのだろうかなどと考えてしまいました。お連れ合いの美恵子さんはインドネシア人で留学中に発病したそうです。お二人とも仲が良くて羨ましい限りです。最後に森元さんは「隣人になってください」と話されました。

そして韓国語?(日本語ではありませんでした)で歌をうたってくれました。
秋の日暮れは早く辺りはすっかり暗くなりましたが「お食事処 なごみ」は暖かな光に包まれていました。

さて、11月18日の朝日新聞夕刊に「ハンセン病歴告げた 息子の妻は家を出た」という記事が掲載されました。見出しに「つい3年前 法整備進むのに」「差別「国民全体の問題」」。
2001年以降に元患者や家族から報告された差別事例が載っています。

  1. 小学校でハンセン病について誤った教育が行われ、児童が「骨が溶ける病気」「友だちがかかったら離れておきます」などと作文に記していた。
  2. 元ハンセン病患者が温泉宿で宿泊を拒否された。
  3. 父がハンセン病患者と告げたところ、夫に「子供に影響はでないの」などと言われ、最終的に離婚に至った。

義務教育でハンセン病の正しい知識と今までの経緯について伝える必要があると思います。

全  生  園

既に1940年代、特効薬が開発され、治療法が確立されてもなお、隔離生活をさせられていた子どもから大人までの多くの人たち。全生園とは死ぬまでここに暮らすということ。

当初の所長は警察から来た人だった。皆犯罪者のような扱いを受けたようだ。牢屋もあった。住む家を作ったり農産物の生産、医療行為の補助、重症患者の世話、亡くなった方の荼毘や埋葬、何から何まで自分たちでやってきた。
与えられた荒れた土地を開墾し出てきた根を築山のように積み上げた小さな丘(望郷の丘)から会えない家族や故郷を想い幾度涙しただろう。本当に酷い話だ。

全生園の敷地は広い。あちらこちら一人で散歩してみた。

広い敷地に整然と立ち並ぶ平屋建ての家々。
あまりに広い敷地をうろうろ歩いたためか、迷ったか、と思ったとき、患者さんなのだろう、自転車で距離をおきながら、道先案内人のように私を導いてくれた。

森の中で出会った やさしさ だった。

多磨全生園を訪ねました

10月26日、お天気に恵まれた良い日に、12名で全生園に行きました。事務局の手違いで一時間早く到着した皆さん、申し訳ありませんでした。粟谷さんは5時起きだったとか。朝の一時間の差は大きいです。すみません。

ハンセン病への理解と差別や偏見をなくす目的で建てられた資料館は、土曜日なのに閑散としていました。主に学生が社会科の一環として団体で訪れる施設になっているようです。
今回は資料館見学をし、その後ハンセン病患者の森元美代治さんのお話を直接お聞きすることができたのは大きな収穫でした。

森元さんのお話は、ざっとこのようでした。
森元さんは、鹿児島県喜界島に生まれた。小学校5年生くらいから体に異常を感じていた。足に砂がついて、それを拭くと血がにじむのに痛みを感じない、おかしいなと子供心に思っていた。中学に入り野球をしていて他のみんなが汗をかくのに、自分だけ顔がまっかになって・・たまたま校医が学校に来ていて、ハンセン病と診断され、らい予防法の隔離政策により、国立奄美和公園に隔離入園することになった。とにかく一生懸命勉強して、大学を目指した。1959年大学進学のために多摩全生園に転園し、慶応大学に合格した。園を抜け出し、大学に行ったが、大学の誰にも自らがハンセン病患者であることは隠し続けた。いわゆる逃走患者だった。卒業後は金融機関に就職が決まり4年間勤務したが、病気が再発し、再び全生園に入園した。そこでインドネシア人の奥様と知り合い1974年結婚した。全生園では医師の一方的な処方により、過量の投薬により右目は失明した。左目も弱視となり、足も不自由になった。このまま社会と隔絶した生活で一生を終えようとした1996年にらい予防法が廃止された。森元さんは夫婦共著で、「証言・日本人の過ち」を実名で書いた。それを朝日新聞が取り上げてくれ、話題となり、徹子の部屋にも出演した。1999年にハンセン病患者の不必要な隔離政策をとり続けた国家に損害賠償請求をもとめて訴訟を起こした。森元さんは原告団の事務局長となり、原告のまとめ役として尽力した。

ハンセン病の家族は自分の家から患者が出たことで家中を消毒され、偏見の目にさらされる。兄妹が結婚することも難しくなる。「青酸カリを飲んで死んでくれ」と家族にも言われた。家族も患者も苦痛を味わった。森元さんは「一人で見る夢は夢だけれど、みんなで見る夢は現実になる。隣人になってください。」と話された。

現在は平穏な暮らしをされている。読書三昧の日々だそうだ。
森元さんは車椅子ではあるが、お元気そうだった。同じく奥様もお元気に森元さんの車椅子を押されていた。本当の苦しみを味わった人は、苦労を顔に出さない。本当の絶望を感じた人は穏やかでいられる。森元さんはお話好きのお話上手な、明るい魅力的な方でした。国はハンセン病は伝染性の病気とし、法律を作り隔離してきた。プロミンが開発され劇的な治療方法が見つかったにもかかわらず、隔離政策は維持し続けてきた。厚生省もいつもそうだ。一旦承認した薬は薬害がでてもなかなか承認の取り消しをしない。自らの非を認めない。取り返しのつかないことをした。人の一生を台無しにした。その罪はつぐなって償えきれるものではない。家族も同様だ。 家族への賠償もやっと認められた。 

森元さん長時間にわたりお話を聞かせていただきありがとうございました。
もう一度全生園に行って、ゆっくり資料を見、証言ビデオも見、森元さんにもお会いしたいと思います。広い園内、以前お話がでて叶わなかったお花見、実現できるといいなと思います。
森元さん、本当にありがとうございました。コーディネイトしてくださった塚本さん、ありがとうございました。
みなさんも機会があったら是非出かけてみてください。まず、知ることから始めることの大切さを今回も感じました。

近所にあった朝市

Aコープの朝市(水曜)を知ったのは今春のことでした。私はエンドウ豆入りビニール袋1つだけ買ってはそのまま家路へと着いていました。次回も同じです。儲けにならない客だったのでしょうね。豆ご飯は幼少時からの大好物でして、おかずなしでもいけるのでした。エンドウ豆が見られなくなると、ラッキョウの酢漬け1袋へと移行しております。

十月に入って、久しぶりに朝市を訪れてみました。さすがに柿などの果物が数多く並んでいます。他には、仏壇や墓参りの花柴、竹の子芋、大根、オクラ、落花生、水菜、春菊、レタス、里芋、サツマイモ、ネギ、モロッコ豆、漬物…等。竹の子芋は初めて聞く芋の名です。 

客が多くいましたが、現在の会長さんから朝市の成り立ちを拝聴できました。

「当時、作物がよくできたときにはご近所にお裾分けしたし、それでも余って廃棄したこともあって、もったいなくて販売を思い立ちました。『生産者と消費者との交流を図る』ことを名目に、婦人部8人の会員で昭和52年に始めました。今年で43年目です。多いときには40人をこえる会員がいたこともありますよ。露店の並び方ですか? 順送りで一つずつずれます。つまり、来週は隣の場所に移ります。早朝に起きて畑へと行き野菜などを収穫し、朝食を急いで済ませ、ここ駐車場に来ていますね。台風や大雨? 前日に取り込んで保管しておきます。でも、葉物野菜は鮮度が落ちるし、傷みやすいから持ち込まないけど…」

正月、お盆以外、毎週水曜の朝には運び入れ、並べているといいます。本日、偶然にも初代会長さんもおられました。笑い声にも勢胃があって、パワフルであります。昭和2年のお生まれで、ただ今92歳だと話されました。

私は、本日もラッキョウ酢漬けの1袋を手にして家路に着いたのであります。

日々雑感

小次郎をちょっと見直す

小次郎はチャラ男で、食べ物とお散歩に目がない。だから、誰が誘っても尻尾を振ってついていくと思っていた。ところが、ところが、父と姉が我が家に来た時、小次郎を散歩に誘ったが全く動こうとしなかったと聞いた。小次郎なりにきちんと線引きしていたのだ。こんな忠誠心があったんだ。小次郎えらいよ。すごいね。見直した。

と思っているが、私が紙袋をかさかささせただけでダッシュでやってくる。お皿をもつとついてくる。お箸を持つとおこぼれはないかとぴたっとくっついてくる。ほめすぎたかなぁ。

徳がある

今年の3月から少しずつだが、亡くなった吉村さんの家の片付けをした。一人の生活でもこれだけの物があるのかと驚きだった。93歳で亡くなられた吉村さんがずつと大切にしていたものだから、年代ものが多い。柳ごおり、竹でできた衣装ケース、プラスチック製の衣装ケースもたくさんあった。これらをなるべく小さくして粗大ゴミ処理を免れようとした、が、今どきの衣装ケースは壊すに壊せない。ところが竹製のケースは私が踏みつけるとバリバリ折れてあっというまにゴミ袋に詰め込めた。エコはすごいと改めて感じた。
全く空にすることはできなかったが、吉村さんもこのくらいに片付けば満足してくださるだろうと思えるところまでやって、終えた。すると二人の人から同じことを言われた。最後まで片付けをしてくれる人がいるのは、吉村さんに徳があるからですね、と。「徳がある」とは、その人の心を慮って、その人のために動こうとする人がいる、(損得なしに)動こうと思う、心を動かせる力のことなのだと思った。

派遣を脱した

この年で贅沢などいっていられない。仕事を探しても年齢がネックになって面接さえしてもらえない。派遣会社に登録して得た仕事が中央区役所の事務だった。とてもいい環境で、係長が「みなさんと同じに接してくださいね」とまず言ってくださったようだ。教え方も丁寧、何を聞いても丁寧に答えてくれる、お昼も正社員の皆さんと同じところで、一時間楽しいおしゃべりで過ごした。「いい職場だな」と感じた。ただただ難点は、仕事量が少ないこと。前にも言ったが、言われた仕事はすぐに終わってしまう。何をしたらいいか、それぞれの役割があるので余分な手出しはできない。

そんなこんなで、手持無沙汰な時間が多く、いつまで働けるかもわからない不安があった。結局10月で辞めることになったが、10月31日お礼を言って帰ろうとすると、職場全員の皆さんにそのことを伝え、所長から花束をいただき、この7カ月をねぎらっていただいた。たった7ヶ月なのに、申し訳ない思い出いっぱいだった。みなさん、ありがとうございました。働きやすい職場でした。

10月で事務員さんが辞めるので面接にきませんか。と声をかけてくれる事務所があった。皆さん憧れの大石剛一郎先生の事務所だ。11月から働かせていただいている。
仕事ができるといえない私でも、やはり法律事務所は働きやすい職場だ。先生方も何につけても大目に見て下さっている。ここを最後の職場にしよう(先生方はどう思っているのか、怖くて聞けないが)。また銀座に戻れた。コンビニの店員さんや道行く宅急便の配達の人が私を覚えていてくれて、笑顔になる。うれしい。

10月9日(水)月例会報告

10月26日(土)ハンセン病の全生園見学について打ち合わせ

ハンセン病患者の森本美代次さんのお話を伺うことができることになった。(塚本裕子さんが森本さんと親しく、段取りしてくださいます)
次回の月例会  11月13日(水)午後6時~

11月13日(水)月例会報告

  • 福祉医療費助成制度の格差について相談があったので、全員で検討した。
    各自治体で条例により定められた基準によるので、不平等と言えるかどうか。市議会に働きかけたらどうか?その自治体の財源の有無による。不平等といえるのは働いている障がい者の年金についても同様。さらに学習していこうということになった。
  • クリスマス会のお知らせがあるので、会報を出す。
    作業日11月22日(金)午後6時~
    お手伝いできる方はお願いしたい。
  • ハンセン病資料館見学、森本美代次さんのお話について感想をかいてください。
    締め切りは21日(水)
  • NPO法人の東京都への報告が終わった。市民生活部からは電話や文書による督促があった。
  • 12月14日(土)クリスマス会13時~16時まで
    お手伝いいただける方は11時頃にきてください。
    プレゼントの金額は今までどおり500円。会費2500円。
  • 今後の活動
    メーリングリストの活用ができていない。アドレス連絡者が少ない。活用に向けて準備する。
    イベント(講演会・音楽会など)企画したらどうか。
  • 12/6 障がい者週間に合わせ、神奈川県の清川村社協主催の講演会がある。
    講師:松澤正美、講師:粟谷弘海
  • 名入れボールペンの配布をしたらどうか。
  • 理事の退会について
  • 魅力ある会活動のためにできることは何か?
  • 今年は職リハの研究発表会への清水弁護士の参加はありません。
  • 今後の予定
    12月14日(土)クリスマス会
    1月15日(水)月例会
    2月15日(土)拡大学習会 「改正民法について学ぶ」
    3月11日(水)月例会
    4月10日(金)月例会・会報発送作業
    5月30日(土)総会

予告
知っトク!!改正民法を学ぼう
50年ぶりに民法の大改正が行われました。
一番身近な法律です。知っておいたほうが絶対有利な内容を学習します。
債権法分野や相続分野(遺言書作成・相続人以外の故人をお世話した人の寄与分・遺言書の作成)など
日時 2月15日(土)午後1時~
場所 中央区の集会所
講師 弁護士 清水建夫 
場所が決まり次第再度ご連絡します。たくさんの皆様のご参加をお待ちしています。