2003年学習会報告

障害児・者人権ネットワーク学習会要約(5月31日)
「現行法のどこが問題か、なぜ差別禁止法が必要かを探る」

障害者基本法序説  古野晋一郎

なぜ序説なのかというと、差別禁止法で最初に勉強しておくことが必要じゃないかと思ったからです。
まず、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、精神保健法・精神障害者福祉に関する法律、などは基本法から発して出来たものではないということですね。
障害者基本法があとからできたもので、既存のものの理念が総合化されたものであるならば、既存の法律と見比べてどこが問題なのか、それと人権ネットの学習会で入手したスウェーデンのLLSやアメリカのADAと比較して何が問題なのか見ていく必要があると思ってとりあげたわけです。基本的な資料として比較対照表をつくってみました。それを見て書いたのが7ページの報告です。

では、最初の目的のところからみていきます。

(目的)

障害者基本法の目的として、「障害者のための施策に関し、基本的理念を定め、及び国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、障害者のための施策の基本となる事項を定めること等により障害者のための施策を総合的かつ計画的に推進し、もって障害者の自立と社会、経済、文化その他あらゆる分野への参加を促進することを目的とする。」とあります。身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、精神保健法・精神障害者福祉に関する法律では、それぞれニュアンスが変わってきています。

LLSとADAを見ますと、LLSではずばり「目標は、この法律の対象者が、この法律の対象でないものと同等な生活を可能にすることである。」となっています。ADAでは1)障害を持つ人への差別を排除する明確で包括的な国家命令の制定2)障害を持つ人への差別に対処する明確で強力な一貫性のある施行可能な基準の制定」となっているように、権利を保障するような文章になっています。基本法の「~を促進する」という間接的な表現とは全く違うのです。

(障害者の定義)

基本法の「身体障害・知的障害・精神障害があるため…制限を受ける者」に対して、身福法は身体上の障害と身体障害者手帳を受けた者という定義があり、知福法では定義と手帳に関する規定がありません。精福法では病名等をあげ、また精神障害者保険福祉手帳を別に掲げています。障害の定義に関しても、障害の種類に応じて定義が異なります。

(国及び地方公共団体の責務)

法律の実行の責務は国・地方公共団体にありますが、努力目標であって、義務ではないんですね。LLSやADAではコミューンや州政府事業者等が責任を明示されています。

(自立への努力)

法律の中で家族を含めて障害をもつ人に努力が求められるのですが、そのようなものはLLSやADAにはありません。

(教育)

文化省が、統合教育は世界的な流れに抵抗して、特殊学級と通常学級との区分にこだわっていることがあります。
21世紀の特殊教育のあり方についての報告が出たんですが、個別指導計画ということを言いだしているのですが、それは私が関係する自閉症の立場からいうと、要望する個別教育の流れにはあっているんですね。
考えようによっては、この統合というのは、介護保険や支援ぴ制度のように、財政の節約のためにやる面もあるわけで、喜ぶわけにはいかないということです。

(雇用の促進)

雇用率を1.6から1.8に比率が上がっただけでは、障害をもつ本人には何の保証もないわけですね。アメリカの人権擁護運動の中で出てきた、アファーマティブアクションのようなものが必要だと思います。

(施設の整備)

施設から地域での支援への移行ということが言われていますが、本当に日本でできるのか疑問があります。アメリカの脱施設の場合は、施設に使っていたお金を、州から地域に移すというやり方であったために、話が簡単だったのではないかと思います。日本の場合、社会福祉法人という民間施設がやっていますので、既得権益を巡る利害関係があってなかなか上手くいかないのではないかと思います。

他にも、人権擁護法案についは、これがあるから十分だということになりかねませんので、そういう政府の消極的な姿勢をしっかり監視しなくてはならないと思います。

これからの動きをどうすればいいかということですが、私は人権ネットをベースキャンプにしたいなと思っているんですね。
特殊教育の問題とか、手帳の発行が各都道府県バラバラであるということとか、いろいろな問題を訴訟を起こしながら変えていく必要があるのではないかと考えています。
無年金障害者をなくす会が今訴訟を起こしていますが、そう言う動きが必要じゃないかと思います。
アメリカの障害者運動では親とか団体にはすごい力があったということですね。
障害者の家族、親族を合わせれば国民全体の1割から2割になりますから、大きな力になると思います。
マスコミを利用していくという意味で、マスコミにもたくさん障害をもった家族がいるわけですから、そういう人たちと連携していくことも必要だと思います。

奥山
勉強会が終わる頃には、日本の法律はひどいなと皆さんお感じなるかと思う。
じゃあ、具体的に差別禁止法をどう実現していくかという、提示が本当に興味深いです。訴訟を起こしていくということは、負けてもとにかく起こしていくのか、勝てると重うから起こすのか、どのようなニュアンスなのでしょうか。例えば学校の問題で、親は争ってでもという気持があっても、本人は耐えられるか。社会人として進めたいという気持と、でも子供の気持ちを考えてどうなのか、というところですごく迷うんですが。
古野
今までの福祉制度の訴訟はたいがい負けています。だからやればいいというふうには言えないですが、裁判で負けてもやることで実際の状況が世間で理解されて制度が変わるということがあるのではないかと思います。負けてもというやり方もあると思います。
まれなケースの場合はむりですが、単純に自閉症の人ということであれば、全国に50万人いる。そう言う人たちが一緒に取り組んでいけばいいのではないかと思います。
清水
大阪の人たちは、いろんな人が乗車したり、レストランに行ったり、障害者グループはすぐに訴訟を起こして、だいたい負けているけど、結果的にはJRがどんどんかわっていってるんですね。最近では青梅線だと思いますが、車いすトイレがなかった。最高裁で負けたが、車いすが対応できるようになりました。だから負けても成果があります。弁護士のバックアップ体制はできていますので、どんどんやっていった方がいいと思います。

成年後見制度における財産管理と身上保護 葛生元昭

私の子供は施設で生活しています。そのことを念頭に置いて話したいと思います。

2000年4月に新成年後見制度が施行されましたが、後見人に就任するのは家族が多く、身上監護を担うべき福祉関係者は少なかったようです。
また、制度が整うまでの暫定措置として、利用契約書は親族が立ち会い署名しているという現実があります。

「自己決定を支える仕組み」である成年後見制度が全くといってよいほど利用されていない状況をどう見たらよいでしょうか。
成人に達したが判断能力、自己主張能力が不十分である知的障害者にとっても、最も期待されるのが身上監護ではないでしょうか。
家族あるいは従来の相談機関による援助を受ける場合、利用者の自己決定の尊重よりもパタナリステック(父権的温情主義)による援助に偏ることが多くなり、真の権利擁護システムとはなりにくい。
施設、地域を問わず専門化された介護要員の不足が最大の原因ではないか。
成年後見制度における財産管理が真に「利用者のため財産管理」を目的とするのであれば、財産は単に「保全」されるのではなく、むしろ利用者の幸福追求を目指して積極的に「消費」されなければならないはずです。
そしてハンデキャップをもっている場合には、生命健康の安全や快適な生活環境を確保するための支出、即ち身上監督保護こそが、この消費に対する最重点項目となるべきであると思います。

したがって、財産管理は身上保護の目的のために機能しなければなりません。成年後見法は、地域の中で人々が尊厳を持って生活を全うするためのしくみを、身上監護のアプローチから構築する改革といえます。

斎藤
親しか後見人になれない状況を根本的に見直さなければならないと思います。親に権利を委ねなければならないという面でも、親は子離れしたくても子離れできなくなるという面でも問題があると思います。
葛生 
保護者が職員と話してはいけない。
名児耶
施設に入所して20年ぐらいたって財産が2000万ぐらいたまったのですが、そのおじさんが金がいるからよこせと言い出してきて、施設の人が困って相談に来たというケースがありました。施設に長く入っている人は知らず知らずに財産をもっていて、それを狙っている人が多くいます。そこから守るためにも、後見人制度をもっと使いやすいようにしなければなりません。それから親が後見人になるのは反対です。親亡き後というのが一番の命題でして、親が亡くなったら別の人を選ばなくてはいけませんので。それに親が一番人権侵害をしているのではないかと思います。
清水
後見人の適任者がなかなかいない。そのことから結局家族がなっているというのが現状だろうと思います。弁護士会も受け皿になってはいるのですが、いざ契約となると金額的になかなか難しい状況です。

学校関係の法律と運用について 奥山薫

障害児の学校教育に関する法律の主たる国内法は、憲法、教育基本法、学校教育法、学校教育法施行令(政令)、学校教育(省令)があり、また、障害者基本法にも教育についての条項があります。そして国内法に準ずるとされる、子供の権利条約があると思われます。

憲法には「すべての国民は、法律に定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあります。「その能力に応じて」というところは、「子どもの発達段階に応じて」ととらえている人が多いようです。
子どもの権利条約でも同じようなことが謳われているのですが、どうも日本では、障害があったら差別をしてもいいというように解釈をしている向きもあり、各法律が悪い方向につくられています。障害者にはプラスαの支援ということになっていないのです。

障害者基本法の「障害者がその年齢、能力並びに障害の種別及び程度に応じ、充分な教育が受けられるようにするため、教育の内容及び方法の改善及び充実を図る必要な施策を講じなければならない」ということが、実際の施策として分離教育になってしまっています。

教育基本法の改正ですが、中教審の報告で全国特殊教学校長会の副会長が、今までの体制を維持するような提言を行っているようです。

こどもの権利条約を見ますと、「障害…にかかわらず、いかなる種類の差別もなしに、この条約に掲げる権利を尊重し確保する」と子どもに教育権があり、親には「親…が、…子どもの能力の発達と一致する方法で適当な指示及び指導を行う責任、権利及び義務を尊重する」というように教育の選択権があると書かれていますし、「締結国は、障害児の特別なケアへの権利を認め、…子どもの条件及び親または子どもを養育する他の者の状況に適した援助の拡充を奨励しかつ確保する」とあり、国側が用意した支援ではなく、親が必要だと言った支援をしなければならないと宣言しています。

しかし、日本の国内法では、送迎を親がしないと教育が受けられないんですね。
それから入学できないというトラブルも他の市町村ではありますが、私の所では入学はできるのですが、入ってからいろいろと問題があります。

練尾
香川は遅れていまして、うちの子は重度の知的障害なのですが、普通学級の入学するにあたって教育委員会ともめました。教育委員会に毎日つめかけていろんなことをすると、その時点においては制度的な法律的な救済がない、現状が変わらないという状態があっても、その後に入る子どもたちは比較的入りやすくなりました。自分の子どもの場合も小学校は結局学籍は障害児学級でしたが、中学校は「あの子が来るから学校はなんとかしなくちゃいけないな」ということで学校の対応がずいぶん変わりました。当事者というところでは成果はなくても、仲間という視点では成果があります。でも、しないと何も変わりません。障害もたない子の親は何もしませんので、とにかく被害を被った人からするしかありません。だから一緒にやろうという人がいる限り動いて欲しいと思います。
奥山
鬼のような先生ばかりではないですが、権利・差別に対してはわからないんですね。プールは来週、私が行かなくても入れてくれるかどうかはじめて結果が出るのですが。訴訟という形で主張できるかどうかはむずかしいですね。入学の問題でしたら、養護学校に送られたら場合は、学区外に帳簿を送るので、親の同意がないということで裁判に勝っています。入学を拒否されたらもちろん訴訟を起こしますが、遠足に行っても見ているだけとか、安全上の理由からプールに入れてくれないとかいう問題は難しいと思うのです。
清水
訴訟を起こすとすれば、「~しなければならない」というようにするのは難しいと思いますが、おそらく慰謝料請求ということになると一定額は認めるでしょう。
粟谷
僕の時代は、養護学校が義務化される前でしたので、修学猶予でした。分離教育は不自然だと思っています。ある幼稚園の報告ですが、障害がある子もない子も一緒にということでやったところ、いじめはなく、むしろお互いの思いやりの心がはぐくまれたそうです。教育効果はあると思うのです。養護学校の教育実習に行ったときに身障の重度のクラスに配置されたのですが。そこで行われていたのは学力ではなく生活レベルの指導でした。結果的に、普通能力で、進学したいと思っている子が、養護学校卒業で終わってしまうのです。だから、どんなことがあっても普通学級に入れるぞという親が出てくるのかなと思います。学力の差で授業について行けない子は普通学級にもいます。「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という憲法をきちんと受けとめるのならば、身体とか知的という障害で学校を分けるのではなく、ついていける環境設定をしていくことが大事なのではないかと思います。

差別禁止法学習会(教育) 小野清美

勉強していて、教育の場では能力至上主義で、数人のできる子を育てるために多くの子が犠牲なっていると感じました。

法律でカバーできない部分は文部省から通達が出されますが、1978年の通達の中で分離教育をうたわれました。教育委員会を変えることはなかなか難しいですが、最近埼玉の土屋知事が二重学籍発言したことをきっかけに教育の場におけるノーマライゼーションに関しては埼玉が一躍トップに躍り出たという事実もあります。
日本が子供の権利条約を批准したのは遅れてのことですが。
そのときに文部省がつけた付帯条件が2つあります。1つは「この条約締結にあたっては新たな立法措置を行わない」、もう1つは「一切予算をつけない」ということでした。
広報もたった1枚のポスターをつくるだけで終わってしまいました。

条約が法律の中でどういう位置づけにあるのかを調べましたところ、大谷恭子先生が「批准されたと同時に国内法的効力を有する」「条約はすでにある法令より優先する効力のあるものとして位置づけられ」「条約を根拠とした判例も出ている」と言っています。
ですからこれを根拠に訴訟を起こすということも考えられると思います。

永島
私は小中高と普通学級を卒業しましたが、今振り返ると養護学校行った方がよかったんじゃないかという思いもあります。私もそうですが、普通学級の障害をもった子は小中学校では相当ないじめにあっています。ですから、養護学校の教育レベルの問題はともかくとして、存在そのものも否定する必要はないと思います。
名児耶
昔は学校同士でここは学区じゃないなどと言って障害児を押しつけ合っていました。それから比べると今はずっとましになりました。ですが、親が子の状況を考えずに、なんでもかんでも普通学級でと自分の信条を押しつけるという弊害が目に付きます。2年間子どもを学校に通わせず、一番大事な時期に他の子供との交わりなくしてしまうということもあります。子どもが普通学級に行きたいと意思表示をしたのならいいのですが、子どもがどんなに辛い思いをしているかを見ようともせず、ただ自分の考えで普通学級に通わせているような親もいます。森島:私は私自身の意志で地域の子どもとの接触を望んで普通学級に入れたのですが、あまりのいじめに子どもに聞いたことがあります。「今の学校行きたくならない、他の学校行きたくない」と質問しました。でも本人は、「いじめられてもいつも友だちと会えるから今のところでいい」と答えました。遠足はいつも私が同行しました。修学旅行には連れて行ってもらえませんでした。でも本人はそこで満足してたんじゃないかなと思います。
斎藤
養護学校は養護学校があるから選ぶ。だから、なかったらどうなるのかということをもう一度考える必要があるかなと思います。スウェーデンでは、70年代に脱施設化の宣言がされたのですが、その前に教育の選別化は終わっていたんですね。ですから、脱施設を考える意味でも、養護学校の問題から先に考えなくてはいけないかなと思います。
浅野
私は普通学校と盲学校の両方を経験しましたが、本人の希望を最優先していくということが一番大事じゃないかなと思っています。私は先天的に目が悪いものですから、目つきが悪いということでいじめを受けました。でもそれで学校に行きたくなくなったかというとそうでもなく、幼稚園、小学校と一緒だった友だちもいるものですから、高校に入るまでずっと普通学校に行きました。盲学校に行くにあたっては、最初はどうしてそんなところに行かなくちゃいけないんだという思いもありましたが、それはそれでよかったんじゃないかと思っています。普通学校も養護学校それぞれに価値はあると思います。
池上
障害者総合ネットワークの池上です。養護学校義務化反対の頃から運動してきた私としては、いじめがあるから、たくさんの選択肢があるから養護学校というのは本末転倒な話で、権利条約にあるように原則統合だと考えます。いじめがあることと、養護学校があることの話は全く別です。学校時代だけは分離して社会に出てからはノーマライゼーションだよと生活の場面でも雇用の場面でも全く保護がないという、そんなおかしな話はありません。適切な教員を配置できないから親がついていかなければならないのを変えなくてはいけません。子どもが選べるかどうかというのもありますし、子どもが選べないからといって親が選んでいいのかと思います。ろうは別として、原則統合であり、統合した上で何が問題になるかとように議論していただきたいと思います。

障害者の雇用の促進等に関する法律に欠けているもの 大槻ほのか

結論としては、雇用促進法は、障害者の雇用を促進して自立を図るというよりは、私たちは障害者のためにやっているんだと装う地方公共団体や雇う側の事業主のためにあると思います。

第3章「身体障害者又は知的障害者の雇用義務等」は、障害者雇用調整金の支給、雇用納付金の徴収について具体的にまとめたものですが、その部分がこの法律全体の中心となっています。
第7条で障害者雇用対策基本法を作成するよう厚生労働大臣に義務づけられていまして、平成15年度から19年度までの基本方針が3月に告示されました。その中に「障害の多様化等に対応する人材の育成と資質向上を着実に推進する」と記載されています。

やはり障害者にとっては、接する人が大きな影響力をもっています。
うちの息子が、杉並区独自の雇用支援事業団に所属しておりましたが、昨年の11月から長期欠席をし今年の3月末をもって退所しました。
障害に対する理解が得られず、本人は自分はダメなんじゃないかというストレスがあったんですね。
それに対する事業団の対応は、どう接していいかわからないのでカウンセリングを受けてその結果を私たちに伝えて欲しいということだったので、これはもうダメだと私の方で判断し行かないことにしたんです。

事業団自体がいろいろな問題を抱えていることもわかりました。
職業訓練を受けている人の半数以上は45~70歳以上でして、その人たちに障害があるかというとどうもそうじゃないらいしい。
リストラなどで仕事が失って行き場がなく、福祉事務所を通じて事業団に来て、軽作業をして4万から5万円を収入を得ている人が過半数を占めていることがわかりました。
その軽作業の仕事を獲得することが職員の第一の仕事で、それに追われて本人のニーズに応じた指導ができないでいるという状況でした。

どういう人が辞めていくかというと、障害の程度が軽いコミュニケーションがとれる人たち、若い人たちです。
まさに未来をふさがれてしまっている大変悲劇だなと思いました。
障害の理解に対する職員研修が行われているかというとそうではなくて、事業団というのは、平成2年に設立された障害者福祉事業団が平成10年に雇用支援センターと一緒になったものです。
現在では障害者の雇用を促進するのではなくて、高齢者の所得を保つことが事業になっています。
そのために若い障害者が去らなければならないという現実があります。
この支援センターは、雇用促進法を基づいて設立されています。
この促進法を読む限りでは障害者の方を向いていないということがわかります。法律を作る段階で障害者本人を参加させるということが必要だと思います。
障害があるといっても自己表現ができないというわけではありませんので、その気持ちをくみ取るということが大事じゃないかなと思います。

清水
雇用促進法は人権ネットの労働プロジェクトでもとりあげて、とんでもない法律だという結論に至たりました。
三門
私は今50でして、千葉県の印西市に住んでいます。2年前まで25年間事務の仕事をやっておりましたが、眼の神経が萎縮しましてやむを得なく仕事を辞めました。目が悪くなると同時に、鬱状態の生活を送りました。実家の方にもどってからは少しずつ快方に向かいました。社会が障害者の雇用という問題に手がつけられていない状況は、毎日痛感いたします。それから、鬱状態になりましたので、勤務していたときに通院しませんでしたので、初診が国民健康保険だったために、25年勤務して厚生年金を積み立ててきたにもかかわらず、国民年金で障害年金の手続をしなければならないというのが今の法律の実態のようです。そなると受給額に倍ぐらいの開きができてきてしまいます。今の制度に大変矛盾を感じております。
神田
その問題に関しては、法が変わらない限り現状を変えるのは厳しいと思います。雇用に関しては、自分のことを振り返ってみますと、自分の居場所がないというのが実感でした。
野口
知的障害者の授産施設に勤務してきたときのことをお話ししますと、知的障害者が一般就労していくということが施設の方針なのですが、職員が障害者である場合には他の職員と対等に扱ってくれるかというとそうじゃないんですね。その矛盾を私は経験してきました。
内山
障害者の相談の仕事をしています。雇用納付金という話が今ありましたが、雇用率未達成の事業者から毎月5万、年間60万のお金を徴収するわけですが、それをもとに促進協会が成り立ているわけですが、雇用率が達成されるようになると、お金が入ってこなくなり、今度は出さないようにするという感じですね。国からお金が入ってきていないわけですから。
清水
労働基準法に、解雇は原則できる、ただし権利の濫用のときは無効である、という規定をわざわざいれようとしているんですね。2年前に小泉首相が指示したということだそうです。
浅野
証券会社に勤めていますが、はじめから障害者枠で入りました。障害者の補助器具に関してなかなか雇用主に理解が得られないということで、今東京地裁で自分の雇用主相手に民事訴訟をやっております。

障害者基本法について 粟谷弘海

僕は初めて勤めたのが、身体障害者福祉法に基づいてつくられた施設でした。
そこは入所して生活と作業をする場所です。
作業工賃は、下が3千円。上が2万9千円。平均で1万5千円ぐらいでした。
あなたたちはいつかは社会に出られるということでやってたわけですが、やっていたのはビデオカセットの組み立ての流れ作業でした。内職ぐらいの単価です。

利用者の一人が何気なく言ったことが頭に残っています。
職能判定、医学判定、生活判定、それからもう一つ心理判定を受けるわけですが、それについて彼は「心理判定を受ける根拠がわからない。障害者は身も心も障害者なんですかね」と言いました。これが70年頃の状況です。

その中での日本政府の福祉観がどうであったかというと、保護と障害者をなるべく健常者に近づけていくという更生でした。
そうすることで就職できるし日常の生活もできるという考えでした。そして80年頃になると、国際障害者年ということで国連からノーマライゼーションが出され、アメリカでは重度の寝たきりの人が支援者の力を借りて一人で生活できることを証明したんですね。

そのことに影響されて、それまでの障害者対策法から障害者基本法に移り変わったわけですが、保護と更生の考え方は残ったんですね。
障害者の権利を認めるということはこの法律では出てこないんですね。

スウェーデンではどうなっているかというと、国連の基準を目標に国内法を整備していくということでした。
日本は、当事者の意見を聞かず官僚の手によってつくられた部分が多いと言えます。保護の部分がメインとなっています。

障害者の権利擁護、社会的差別の禁止条項がないがゆえに、例えば民間のアパートが断られたことに対して争っても負けてしまい、大家の温情に頼るしかない、という状況です。
障害者の基本計画の策定に関しては、国は義務ということになりましたが、地方公共団体は努力義務であり、努力したけどできなかったということを認めてしまうわけですから、法があってないようなものですね。

清水
職業リハビリテーション。心理判定も受けさせられる。こんな所に入っていたら浦島太郎になっちゃう。同じ障害者の声が力になった。
名児耶
職業センターは役人が食い物にしている。茨城では職業センターの上の方は、県庁や職安の退職した人。まったく機能果たしていない。
清水
雇用促進脅威会。労働事務次官だった人。トップクラスの8割は。事業主団体のための団体。
斎藤
過小評価されているのか。この4つしかないか。内容は対して変わっていないということで理解していいか。
粟谷
日本の福祉施策は、90年収容から地域に変わったという部分はあるが、更正・保護というところは依然として変わっていない。障害者自身が主体的に社会参加できるように社会整備していくという視点が必要。どちらかというと、差別をつくる方。
清水
障害者基本法の改正
池上
改正案をたてるプロジェクトにいた。発生予防、医療リハビリテーション、障害者を変えていく、障害が社会の問題だという視点が欠けている。男女共同参画社会もそうですが、差別禁止法。中途半端な改正でこれが差別基本法だよということになったら困る。次に何につなげるかということを考えてもらいたい。

生活保護法について 細田威行

生活保護については、3つの問題点・改善すべき点をあげたいと思います。

まず1つ目は、世帯単位の原則を撤廃し、個人単位にすべきではないか、ということです。
世帯を別にする親族に扶養を求めることが難しい現実に対応する意味でも、また実際の運用にあたっては各自治体では生活実態をふまえて世帯分離をしている実状にそう意味でも、そうした方がいいと思います。

2つ目は、長期に受給を要する被保護者に対応するための制度になっていないということです。
生活保護は、一時的な救済を経た後、保護を受けることなく自活していくことを前提としています。しかし、現実には、被保護者の多くは、自活能力を障害によって制限された人たちや、高齢により自活能力が失われた人たちです。厚生労働省が発表した統計を見ればわかりますが、そういった人たちの割合は年々増えています。
高齢者や障害者は、老齢年金や障害年金や社会福祉サービスで本来最低限度の生活が保障されるべきです。
しかし、高齢者や障害者の被保護者が多くいることから考えると、現行の年金と社会福祉制度に問題があることがわかります。

それから3つ目は、国が個々人の生活を保障する社会的扶養以上に、家族による扶養を優先させる社会保障制度を改める必要がある、ということです。
障害者は家族の援助に頼ることなく、自立生活を実現しようとした場合、それにみあった収入がありません。
例えば、障害が判定上は軽度だったとしても、支援を受けることなしに自立することは難しい場合は多いと思います。軽度となれば年金は少ない、あるいはもらえないため、グループホームなど必要な援助を受けるお金が足りなくなります。
生活保護の世帯保護の原則にしたがえば、一般就労ができず年金も少なく本人に最低限度の生活を維持する収入がなかったとしても、扶養者に一定の収入があれば要保護者とは認められません。
これは、事実上、障害者本人に親から自立して生活する選択肢がないことを意味すると思います。
それに、扶養者との関係がよくなかったり、親が仕事などで忙しく生活面のサポートが受けられなかったり、あるいは親から過度に管理されるということになれば、健康で文化的な生活はのぞめなくなります。

実際の運用では、生活実態にそくして、世帯分離をして、生活保護を認定するケースもあります。ただし、こういうケースはあくまで障害者本人の強い要望、支援者の懸命なはたらきかけ、ケースワーカーの配慮ある運用によって実現したケースであり、法的に権利として認められたわけではありません。法的にきちんと保障していくことが必要だと思います。

練尾
ある程度の年になったら、自分の子どもを、親から独立させて別のところで生活させてあげたいと、ずっと思ってきました。もう20年近くがんばってきたつもりですが、現実には実現していません。親は生活保護よりも少ない収入で、現実には子どもの障害者年金で生活を立てている面があります。では、子どもを独立させて、親が名一杯働いたとすると、例えばグループホームやガイドヘルプサービスの利用料など、本人をサポートするための費用がまかなえるほど生活保護が出ているかという問題が大きいかと思います。それに関連して支援費がありますが、サービスを全面的に利用して自活できるほどの金額はありません。私の所では、民間のレスパイトサービスを利用すると、1日2万円用意しなければなりません。30日とすると60万になります。生活保護費をもらっても十数万円しかないし、支援費を含めても足りません。だから、本人も親も望んでいないのに親が面倒を見ざるを得ません。
粟谷
生活保護法は障害者のためにあるわけではなくて、生存権の保障ということで国民全員に対してのものなんですね。生活保護の大元の考えは、ちょっと言い方は変ですけど、長期利用じゃないんですね。例えば、病気で、ケガで、失業でというように一時的に生活困窮に陥った場合に生存権を保障するという意味合いでつくられているわけなんです。しかし、障害者は障害をもったまま生きていかなければならない。そうしたときに、所得保障という部分で、今の日本の制度だと年金ということになるのですが、年金額が所得を保障するだけの額になっていないというところが矛盾になるんですね。それ加えて、生活保護を受けるとなると、すごい制限を受けてしまうという問題が起こってきます。生活保護だけで解決しようとするのは限界があるので、制度全体を整理していかなければならないでしょう。

ハートビル法 松尾弘

ハートビル法の正式な名称は、「高齢者・身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」です。

この法律の目的は、条文では「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる建築物の建築の促進のための措置を講ずることにより建築物の質の向上を図り、もって公共の福祉の増進に資することを目的とする」と定められています。
その中で特定建築主の努力ということで、特定建築物、特別特定建築物という2つの言葉が出てきます。私なりに考えたことですが、問題点としては、学校、事務所、共同住宅等は、地方公共団体の条例によって追加もできるということ、建築主には努力義務が課されるだけで、罰則金が適用されていないということ、それから、障害のある人に権利を与えるものではないということです。

次に政府の付帯決議について触れたいと思います。
付帯決議というのは、往々にして法律の妥協の産物としてよく出されますが、平成14年6月28日に出されたものを見ますと、本当に妥協の産物だなということがわかります。
具体的に内容を見ますと、「知的障害者、精神障害者、妊産婦、けが人等建築物の利用上の制約を受けるおそれがある者について、設計上の配慮の必要性及び人的・機械的な支援等ソフト面での対応の重要性等の意義啓発に努めること」、「本法の施行の状況については、施行後5年以内を目的に検討を加えるとともに、その結果に基づいて必要な見直しを行うよう努めること」となっています。

それから、地方公共団体にも十分配慮できる内容がありまして、学校、卸売市場、事務所、共同住宅などいくつか書いてあります。

それからもう一つ、市民参加ですが、世田谷区にも条例を見直そうじゃないかということで、区民が参加できる機会が用意されました。
それに私も参加するつもりです。法律にはいろいろと不備がありますが、あきらめるのではなく、どんどん区民なり市民なりが開かれた会合に参加していって、公共建築物が利用しやすいように変えていくのがいいと思います。

粟谷
1つ補足しますと、ハートビル法というのは、2000平方メートル以上の新規の建物が対象なんですね。

居住福祉施設と差別禁止法  齋藤進治

まず、人権保障についてですが、障害者基本法第3条にある基本理念を取り上げてみます。そこには「尊厳にふさわしい処遇」とか「社会参加活動の機会が与えられる」などといった刑務所で使われるような言葉があります。

次にスウェーデン・モデルをしっかり見据えていくためのポイントとしていくつかあげてみます。
施設が非人間的な生活であるというところから出発しています。
施設での介護をある特定の選択されたグループの人々に向けられた最もシステマティックで不当な暴虐だとして否定しました。
最近、ある全身障害のある方が、「作業所に通うことをよしとする考え方は人権侵害である」と主張していました。社会のしくみがそうさせていると考える視点が必要だと思います。

施設入所者の所得保障の問題についてですが、年金の受給によって財産が貯まるのは果たして貯めるために貯まったのか、もっと施設での生活の実態を解明しなければいけないと思います。

それから、障害者の年金を停止するなど障害者負担増を求める動きが現実になりつつありますので、それも問題視していかなければなりません。在宅支援を受けている人、施設利用者への分配の仕方をきちんと考えなければなりません。

親亡き後は施設だという考え方は今話したような視点から正していかなければなりません。脱施設の兆しとしてのグループホームさえも、小さな施設だ、あるいは施設の分散化だと、指摘する関係者もいます。

「もう施設には帰らない」という本では、水戸事件にあったような閉鎖性や暴力容認体質という人権侵害は、特別な施設で起こった特別な事件ではなく、いわゆる“いい施設”にも内在しているんだということを主張しています。入所施設ではなくもっと自由な生活をと多くの人が思っていると思います。
その人たちの声をどう大きくしていくかということが求められるでしょう。
障害者福祉施設ネットワークのオンブズマンである大石弁護士は、「契約に関する能力や締結方法や内容の問題以前に、「そもそも入所意思がないのに入所契約させるのか」ということが、最大かつ根本的な問題である」、そして「本人の「入所施設はNO」という声が育まれ、引き出され、社会化されていかなければならない」と述べています。

粟谷
スウェーデンでは、ノーマライゼーションの理念に基づいて、2000年からグループホームを含めて施設を全て廃止する方向へと向かっています。しかし、日本では相変わらず高齢者・障害者の施設の建設を進めています。

要警戒!政府・与党による差別禁止法封じ込めの動き-政治の変革が差別のない社会への早道!- 清水建夫

与党3党に差別禁止法を制定する気は全くないと考えた方がいいと思います。
日弁連の調査委員会の十数名と国会議員との意見懇談会をしたのですが、与党で来たのは、公明党の議員でしたが途中で帰ってしまいました。自民党で中心的役割を担う八代 英太氏は来ませんでした。保守新党も来ませんでした。民主党と共産党は来ていたという状況です。

福田官房長官は、国連社会権規約委員会から差別禁止法制定の勧告を受けた後の2002年3月の国会で「米国のように、障害者に対する雇用やさまざまなサービス提供における差別についての救済措置として、一般企業、事業者の特別の賠償責任等を認める仕組みを我が国に導入することについては、検討すべき課題が多いものと考えております」と答弁しています。
そしてこの福田氏があいまいにして問題点については、米田内閣副大臣が「一つは、年齢、性別などの他の差別事象とのバランスをどう考えていくのか、また、二点目は、一般企業や事業者の理解を得ることが可能かどうか」ということが問題となっているため、立法化できないと話しています。皆さんに理解していただきたいのは、差別禁止法は障害者を差別してはならないという条項が入るだけでは何の意味もないということです。
障害に配慮して環境を変えるということを裁判で要求できるものを盛り込まないとダメなんですね。
それから、アメリカのADAにしろ、イギリスのDDAにしろ、障害をもった場合には支援機器と介助者をつけなければならないとしているように、障害者が健常者と同じ土俵に立てるように使用者や教育機関に環境改善義務を課さなければ差別禁止法じゃないんです。
国会答弁等では、人権擁護法案の中に入れているんだと言っていますが、障害が差別を解消すべき「人種等」の一部に位置づけられているに過ぎません。
私は今年人権擁護委員会の一員になりましたが、小学校に行って人権の花を植えてくださいという人権の花運動とか、人権の作文とかをやるだけで、この委員会は何の役にも立ちません。
片や刑務所で起こっている人権差別に対しては何もやらないように、法務省は委員会を隠れみのにしているのです。現在の政府には本当の人権差別禁止をやろうという意思は全くありません。

そこで私が提案したいのは、政治の変革こそが早道だということです。日本人は政治から距離を置くことが、清廉、潔白のあかしであるかのごとく装う傾向がありますが、その結果、三世、四世議員が誕生し、それこそ百年超単位で政治家たちのかたまりができ、政権を投げあいっこしています。
かつて非民主国家と位置づけられた韓国やフィリピンは、政権交代を重ね、今は国民と政治家が正面から向き合っています。日本には、真の政権交替がなく、理念を欠く政治がまかり通っています。
貧しい政治は国民の責任です。法制度上はパーフェクトな民主制度が準備されているが、我が国の民主主義は形骸化しています。日本と日本人に最も欠けているのはHOTさ(あたたかさと情熱)であろう。
HOTな国に生まれ変わるためには、国民が政治と正面から向きあい、自分たちの代表を真剣に選び、国会に送り込んで真に民意を反映した中央政府を作り直すことです。
障害による差別のない国をつくるためにはその方が早道ではないでしょうか、というのが私から皆さんへのメッセージです。

二宮
横浜福祉ネットワークというオンブズ・パーソン組織の事務局に関わっています。オンブズ・パーソンとの話の中での結論としては同じで、はやり政治家がいかんというところに行き着きます。政治を変えないといけないですね。いろいろなところと連携していけばいいと思います。生活保護の話ですが、通所施設の職員として関わっていますが、横浜市ではグループホームで移行するために世帯分離でうまくいっているケースが結構あります。
ナイト・ケアは、横浜市から補助が出ましたので一泊あたりゼロ円でやりました。家族の方々から使いづらいということで今年度からは1000円でやっています。成年後見なんですが、厚生労働省は、それを推し進める姿勢がなくて、地方の行政もその姿勢がありません。各施設でやらなくてはならない状況です。お金の問題で言えば、鑑定にかかるんですね。裁判官の判断で鑑定なしという特例ケースもありますので、心配しないで家裁の人と相談してどんどん申請していった方がいいと思います。それから、大きな問題では、後見人がいないんですね。家族ではなく第三者の人になってもらうのがいいのですが、一人で三人ぐらい持つともういっぱいいっぱいになってしまうので、そのあたりのしくみを考えて行く必要があると思っています。

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